ピーター・ドラッカーは「グルの中のグル」と称されることが多いが、ドラッカー自身はその賛辞はフレデリック・ウィンズロー・テイラー(1856―1917年)に贈られるべきだとよく言う。
「テイラーの『科学的管理法』のおかげで、何よりもまず、この75年間に著しく『豊かさ』が増し、先進国における勤労大衆は、かつて裕福な人が味わったよりも高い生活水準にまで達するようになった」とドラッカーは記している。
「テイラーは労働科学におけるアイザック・ニュートン、またはアルキメデスとでもいうべき人物であるが、それでも最初の礎石を据えたにすぎない。だが彼の死後60年もたったのに、その後この礎石に付け加えられたものはあまり多くない」(『マネジメント―課題・責任・実践』(ピーター・ドラッカー著、風間禎三郎ほか訳、ダイヤモンド社、1974年)(Management: Tasks, Responsibilities, Practices)
人生と業績
テイラーはハーバード大学の入学試験に合格したものの、眼を悪くして入学できなかった。そのため彼のような生い立ちの人間には珍しく、エンタープライズ・ハイドロリックワークス社の鋳型作成者見習い兼機械工見習いになった。
見習い期間を終えた後、テイラーはミッドベールスチール社で単純作業に従事した。いくつかの業務を経て機械工学の修士号を取得した後、彼はミッドベールスチール社の技師長になった。1890年にはマニュファクチュアリング・インベストメント社(MIC)のゼネラルマネジャーになり、その後、能率顧問技師として独立した。
1881年にテイラーはアメリカテニス協会のダブルスチャンピオンになり、翌年にアメリカ青年テニストーナメントでダブルスのチャンピオンとなった。後にゴルフに夢中になり、実験好きと相まって、自然の雨に頼らずとも地下水で緑を保つグリーンを開発しようとした。テイラーは死ぬまでに50以上の特許を申請し、巨額の富を得た。