「宮沢内閣が終わる日、私は自民党を離党して、あなたと行動を共にします」
私が細川護煕氏にそう約束したのは、自民党離党、さきがけ結成の前年、1992年の8月のことだった。
雑誌(週刊東洋経済)で政治改革についての対談をした後で、パレスホテルに場所を移して3時間近く会談し、私はその場でこの約束をした。
バブルが弾け、冷戦が終結して日本は歴史的変動の最中にあったが、自民党は構造汚職が次々と明るみに出て、不毛な選挙制度改革論議にうつつを抜かし、直面していた歴史的な課題に取り組むことができないでいた。
91年当時から既に離党する決意を固めていた私にとって、細川氏の日本新党の立ち上げは鮮烈で、基本的な考えが一致するなら行動を共にするつもりで、その対談の席に臨んだのである。
会談内容は、(1)憲法観、(2)歴史観(歴史認識)、(3)経済社会観、(4)官僚観(行政改革)、(5)政治制度(選挙制度)についての考えのすり合わせであった。
このときはほとんどの基本項目で一致していることに驚かされたが、この彼の思想の骨格は今に至るも何ら変わっていない。
大量生産、大量消費、大量廃棄の経済や生活を転換していくこと。それは細川政権の質実国家の旗として掲げられた。原発事故を文明への警鐘として受け止めた彼が、原発再稼働に抗して都知事選に立ったのも私には必然と思えることであった。
自民党は慎重派も総崩れ
解釈変更すれば“タブー”でなくなる
折から、自民党は、集団的自衛権行使のための解釈改憲を目指す官邸周辺に引きずられてなすところがない。慎重派も総崩れという印象だ。
今や私が離党した当時の自民党でも考えられない事態が現出している。