日本人が迎合しがちな
「専門性」の2つの限界

 日本において、公式的権限に次いで、リーダーシップの源泉として比較的強力だといわれるものが「専門性」だ。

 日本人はとかく専門家に弱い。専門家に言われると無条件に従ってしまうというところがある。

 たとえば主治医。定期健診に訪れて、血液検査の結果などを見ながら、いろいろと注意をされる。「飲み過ぎです。お酒を控えてください」「運動不足です」といわれると、それを疑うということはない。

 その忠告に従えるかどうかは意志の力の問題だが、たとえ従わなかったからと言って、その医師の言うことを信じていないわけではない。主治医であれば、少なくとも従おうと努力するだろう。

 何か問題があった場合の弁護士や会計士も同じだ。あるいは会社においても、技術的に優れている先輩や上司の言うことは素直に聞こうと思うものだ。

 ただし、こうした専門性によるリーダーシップには、2つの限界がある。

 1つは「範囲の限界」である。専門家であるということで、下の者が言うことを聞いてくれるという段階はいいのだが、ある一定の階層を超えると、自分の専門外のところまでリーダーシップを発揮しなくてはならなくなる。その瞬間に問題が起こる。

 専門的なリーダーシップの発揮というのは、有無を言わさない場合が多い。言ってみれば、「いいんだ、こういうふうにやっておけば」といった感じだ。これが効かなくなった瞬間に、つまりは自信のない決断をしなければいけなくなったときに、多くの人が、知ったかぶりをしてしまう。これはすぐに部下にばれる。そうなるとリーダーとして全然信用されなくなる。要するに専門性は職務階層が上がるにつれ効かなくなってくるのだ。

 もう1つは「陳腐化による限界」である。これは恐ろしい。知らないうちにだんだん進行する病のようなものだ。何やら知らない言葉が増えてくる。横文字が多くなる。自分の親しんでいる方法やアプリケーションを誰も使わなくなる。これは本当に怖い。

 たとえば私は、大学を出て野村総合研究所に入社したが、それはコンピュータシミュレーションの専門家としての就職だった。当時使っていたのは大型コンピュータ。大型コンピュータを使えるということ自体が1つの専門性であった時代だ。

 当時の大型コンピュータは使用するのに1秒いくらでお金をとられた。そのコストはかなり高額であったから、できるだけコンピュータの計算時間を少なくするプログラムを書くというのが我々の腕の見せ所だった。

 ところがそのうちパソコンの時代になった。すると、そんな特技は要らなくなった。しかも、小さくなったにもかかわらず、マシンの処理スピードは圧倒的に早くなったから、プログラムで時間短縮をするという常識は全く意味をなさなくなった。つまり、「短時間で計算処理をこなせるようにプログラムする」という私の専門性は全く陳腐化してしまって、今では何の役にも立たない。