一挙に20校を閉鎖して、7校のみを存続させる、という代々木ゼミナールの決断。

理事長名で送付されたこの通達が、多くの授業担当講師の手元に届いたのは8月20日のことだった。閉鎖の話は9月以降に在校生や高校生、保護者、高校に説明するから、それまでは他言せぬようにと記載されていたが、クビを切られる側の講師は黙っていられない。2日後にはこの文書がマスコミに飛び交った。

予備校業界の事情に詳しい教育ジャーナリスト・後藤健夫氏が教育産業の今後も含めて、この「撤退の本質」を語る。

用意周到に進んだ事業転換

【代ゼミショック!~短期集中連載(1)】<br />予備校に未来はないのか? 代ゼミ「撤退の本質」<br />――教育ジャーナリスト 後藤健夫ごとう・たけお
教育ジャーナリスト。大学卒業後、河合塾に就職。その後、独立して、有名大学等のAO入試の開発、入試分析・設計、情報センター設立等をコンサルティング。早稲田大学法科大学院設立に参加。元東京工科大学広報課長、入試課長。現在「大学ジャーナル」編集委員、「読む進学.com 大学進学」編集長、Pearson Japan K.K 高等教育部門顧問。Photo by Jun Abe

 今の50代前半、つまり共通1次世代から大学受験人口のピークを形成した団塊ジュニア世代まで、代々木ゼミナールに関する思い出は尽きないようだ。

 かつて「生徒の駿台、講師の代ゼミ、机の河合塾」と3大予備校を称したが、今は「理系の駿台、国公立の河合、私大文系の代ゼミ」である。合格実績や有名講師のイメージから、自ずとこうした棲み分けのイメージが出来上がった。

 今回の“代ゼミショック”の本質は何か。そして、この撤退戦が、予備校をはじめとする教育受験産業の未来をどのように物語るのか。かつてこの業界に身を置いた立場から、内部事情も含めて、記してみたい。

 代ゼミが駅前の一等地を手に入れ、校舎を建てていったのは、創業者である高宮行男氏が、将来はホテルに転用したり、商業ビルにすればいいと考えていたからだ。これは業界では有名な話である。佐野眞一著『昭和虚人伝』(文藝春秋)にも掲載されて話題となった。

 代ゼミの校舎撤退は2007年3月の千駄ヶ谷校から始まる。2008年には横浜校が3つあった校舎を1つに集約、余った校舎は近隣のビル立て直しの一時避難場所として使われた。京都校の隣にあった別館は、10年10月に1泊3万円もする「ホテル カンラ京都」になっている。校舎がホテルになったのを観た大学関係者は、「ああ、ほんまにホテルになったんや」と驚いた。つまり、7年間かけて少しずつ「校舎撤退」は進められてきたのである。

 そして、今回の措置に至る。この先5年を見通せば、今しかない、というのが経営判断だった。この点については、次回以降に触れたい。