まさに右に行くか、左に行くか、運命の岐路ともいえる選択だったが、世界の研究者の大半は窒化ガリウムを捨て、セレン化亜鉛一本に絞った。きれいな結晶薄膜を作成できるかどうかが発光の大きなカギだったのだが、窒化ガリウムは薄膜を作る土台として最適な基板が見つかっていなかったのでデコボコの結晶しかできないうえ、P型半導体を作る方法も見つかっていなかったためだ。

 一方のセレン化亜鉛は耐久性に欠けるものの、比較的良質な結晶ができやすく、特に米国の研究者たちはセレン化亜鉛派が圧倒的多数を占めた。やがて“外圧”に弱い体質もあって、日本人研究者の多くは窒化ガリウムを捨ててセレン化亜鉛に雪崩(なだれ)を打つように“転向”していった。

 そんななか、窒化ガリウムで孤塁を守ったのが赤崎だった。当時「アプライド・フィジックス・レター」など国際的に権威のある技術雑誌は、「青色はセレン化亜鉛で決まり。窒化ガリウムはすたれていく」と書き立てた。窒化ガリウムに固執する研究者は、それこそ異端児のような扱いを受けかねない雰囲気が醸成されつつあった。

 だが、七〇年代初め、「ひとり荒野を行くことになるだろうが、私だけでもやろう」と心に誓った赤崎は、ひたすらわが道を歩き続けた。結晶の基板にどんな材料を使ったら効果的か、試行錯誤のすえ、サファイアが有効だとわかるまでに四年の歳月を費やした。

 固くて加工はむずかしいが、良質の結晶さえつくれば必ず発光するはずだ。この道一筋の直感と、絶対ものになるという信念に支えられて、次々に発表されるセレン化亜鉛の論文には目もくれず、いかに窒化ガリウムの結晶薄膜をつくるかの研究にほぼ一〇年間明け暮れた。

 その結果、やっとの思いでたどり着いた方法が、サファイア基板の上に窒化アルミニウムの薄い層をはさみ、その上で窒化ガリウムの結晶を成長させるというアイディアだった。あたかも座布団を敷くように、基板の上にバッファ(緩衝)層を入れたら座りがよくならないかという思いつきが、画期的な発見に結びついたのである。

 赤崎の狙いは、見事に当たった。窒化アルミを入れてみると、鏡のようにピカピカの窒化ガリウム結晶ができあがった。これこそが青色発光素子開発の第一歩だった。

 さらに不純物を混ぜ、電子線を照射することによってP型半導体をつくる道が開け、それが三年後の八九年、P―N接合のLED実現につながる。

 赤崎は、「日本人の悪い癖だが、海の向こうでやっていないとなると、そんなことで大丈夫かと不安にかられる。外国でだれかがやったことを取り入れると国の研究費などもつきやすいが、独創的なものにはカネが出にくい構造になっている。『独創、洞察、信念』が私の信条でもあるが、研究にはまず独創性があり、その本質を見極める洞察力と最後までやり遂げる信念がなければならない。われひとり荒野を行くではないが、日本の大学の研究室ももっと自分のやりたいことを突き進めればいいと思う」と、先駆者としてのパイオニア精神を語った。