*鍋
寒くなってくると鍋物が恋しくなる。何人かでひとつの鍋をつつくのは幸せだ。仲良しだ。お腹も心も温かくなる。麺やご飯を入れて「しめる」時はこの上もなく幸せをいただける。
基本的に鍋料理はいろんなものを1つの器に放り込む。ここで生まれる様々な食材のハーモニーがいろんなおいしさをつくってくれる。いろんな味覚と次々出会えるすばらしいものだ。
さて、問題はこの放り込む作業だ。鍋奉行がいれば、奉行に任せておけばいいのだが、奉行はそんなにいないから奉行だ。
したがって、たいていは平民が鍋を扱うことになる。平民の投入作業にはいろいろ作法があるようだ。本当に投げるようにする人もいれば、意味なくかき混ぜて顰蹙をかう人もいる。道具を必要以上に使い分ける人も現れたり、気づけば菜箸で食べていたりする人も出たりする。
お店のあちこちで鍋物が食べられている時、少し見回すだけで、同じメニューなのに、その見え方がずいぶん違うことに気づく。
美人のいる鍋は見ていて美しい。そしておいしい。
それは鍋にも美意識を持って接するからである。具材の位置を定める。肉ゾーンや白菜ゾーンなど、どこに何があるのかがすぐわかる。静かに入れるため、「ドボン」という音がしたり、ハネがあがったりしないで、美しさが保たれる。投入というより設置。ゾーンをきれいにつくるので、真ん中に具材が集まったりしない。ソーンごとの設置タイミングをしっかり見守っている。
自分が食べるものではなく、鍋全体を見て、ゾーンの減り具合をきちんと読んでいる。少しずつ火のコントロールもしている。長時間煮込んでしまいビタミン崩壊の野菜が出てきたりしない。常に鍋を美しく保つことを意識している。
そういった他人への気遣いがあるために、自分が食べる食材のバランスもよくなっていく。「肉ばかり食べてしまったため、最後の雑炊が食べられなかった」などと嘆くこともない。どれを先に入れたのかわからなくなり、口の中に入れたら「冷たい」ものを食べてしまうこともない。
鍋奉行のようにうるさく仕切る必要はない。しかし、鍋を美しく保つ意識を持っていれば、おいしく健康な鍋物と出会える。そもそも鍋物は肌にいい。おいしく美しくなろう。