鍋同書より転載

「きょうの気分で、鍋料理を作ってください」。筆者がそうお題を出すと、落語家・桂吉坊は豆腐と白菜だけの湯豆腐を作り始めた。人間国宝であり、上方落語の第一人者とも称される桂米朝に魅せられた桂吉坊は、米朝の愛弟子である吉朝の門を叩いた。そんな大師匠たちとの絆が詰まった湯豆腐を前にして、思い出話に花を咲かせる。※本稿は、白央篤司『名前のない鍋、きょうの鍋』(光文社)の一部を抜粋・編集したものです。

落語家・桂吉坊にとっては
料理も落語修行の1つだった

 秋の終わりを感じさせる冷気が風に交じりはじめた頃、桂吉坊さんの家を訪ねた。大阪市中央区の長屋の2階が、まるまる吉坊さんの部屋だ。窓ぎわの円卓に用意されていたのは、カセットコンロとゆきひら鍋。水が張られて、大きめの出汁昆布が寝そべるように鍋底に横たわっていた。

落語家・桂吉坊同書より転載

 家のあちこちに本が積まれている。古書も多く、見たところ落語およびその関連本ばかり。『大阪ことば事典』『日本伝奇伝説大事典』なんて本のそばには、畳紙に包まれた和服がいくつも積まれてあったり、「吉」の文字がいっぱいに染められた風呂敷包みがあったり。

 そこかしこに古典が散らばっているな、という思いになった。

 台所から包丁を使う音が響く。

 リズムのある、作り慣れた人の出す音だ。

「コロナになってから落語会もやっぱり減ったので、家にいる時間も増えたんですよ。料理する機会も多くなりました。鍋は多いときで週に2~3回、1度にいっぱい作って、3日ぐらい食べ続けることもあります」