ちなみに、高橋是清を財政の専門家と思っている人が多いが、高橋は本来金融の専門家である。そのことは、高橋のキャリアを振り返ってみればわかる。

 高橋が日本銀行総裁から大蔵大臣になったのは、大正2年(1913年)、山本権兵衛内閣においてであったが、当時高橋は59歳だった。59歳までの21年間を日本銀行で、うち12年間を日本銀行副総裁として過ごしたのが、高橋是清だったのである。

 井上デフレからの脱却期、80歳を前にした高橋蔵相の下で事務次官を勤めた黒田英雄は、戦後の懇談会で、経済学者の大内兵衛から高橋が予算とか租税について一通り知っていたのかと問われたのに対して、「特にそういうものに対する知識はないが、つまり一般的な知識はありました。金融方面が専門ですから、大体こちらから言うことはわかります」と答えている。

重点は財政政策ではなく金融政策
アベノミクスと高橋経済政策の比較

 そのような点をまずは押さえた上で、昭和6年(1931年)末に4度目の大蔵大臣に就任して井上デフレからの脱却を果たした後、昭和11年(1936年)の2.26事件で暗殺されるまでの4年余りの期間の高橋の経済政策を、アベノミクスの3本の矢との比較で整理してみると、以下のようなことが浮かび上がってくる。

 まず、第一の矢である思い切った金融政策こそが、高橋が一貫して行った政策であった。第二の矢として積極的な財政政策を行ったのは当初の半年余りで、それ以降はデフレ脱却後に取り戻した効率的な金融制度を守るために財政を健全化する、軍部からの予算増要求を抑え込む闘いであった。

 第三の矢の成長戦略として高橋が意図的に行ったものはなかったが、井上デフレからの脱却後には実質経済成長率7.2%、インフレ率2%という、戦前で最も理想的な経済成長がもたらされた。

 以上のような整理は、一般的に理解されているところとはかなり異なることから、戸惑う読者も多いと思われるので、以下、時系列に従って何が起こったか、それに対して高橋がどう対応したのかを追っていくこととしたい。

 なお、高橋自身の成長戦略は、地域の実情に応じた自主的な取り組みを低利融資で助成するとのものであったが、本稿ではスペースの制約もあるので、別途機会があれば論ずることとしたい。