埼玉県の所沢市、川越市、狭山市、三芳町の三市一町にまたがる“産廃銀座”。
所沢ダイオキシン騒動の犯人と決めつけられ、地域から大バッシング受けた石坂産業。社員の4割が去り、父から日々怒鳴られ、床にエロ本、壁にヌード写真の状態。そんな“絶体絶命”の窮地を救ったのが当時30歳で社長に就任した石坂典子氏だ。現在では、トヨタ、全日空、日本経営合理化協会、滝川クリステル氏、中南米・カリブ10ヵ国大使……日本全国だけでなく世界中から多くの見学者が訪れる。このたび、ベストセラー『ストーリー思考』の著者であり、数万人の経営者と対峙してきた神田昌典氏と、発売早々第3刷が決まった話題の処女作『絶体絶命でも世界一愛される会社に変える!』著書の石坂典子氏が初対談! 総合誌で「日本一のマーケター」と称された神田昌典氏が石坂産業の過去を見つめ、今後のストーリーを描く(構成・橋本淳司)。
社長就任時に描いた
「絶体絶命でも世界一愛される会社に変える」
という物語
経営コンサルタント、「フューチャーマッピング」開発者。日本最大級の読書会『リード・フォー・アクション』主宰。 上智大学外国語学部卒。ニューヨーク大学経済学修士、ペンシルバニア大学ウォートンスクール経営学修士。 大学3年次に外交官試験合格、4年次より外務省経済局に勤務。 戦略コンサルティング会社、米国家電メーカー日本代表を経て、1998年、経営コンサルタントとして独立。 多数の成功企業やベストセラー作家を育成。 ビジネス書、小説、翻訳書の執筆に加え、教育界でも精力的な活動を行っており、公益財団法人・日本生涯教育協議会の理事を務める。 おもな著書に『ストーリー思考』『60分間・企業ダントツ化プロジェクト』『全脳思考』(ダイヤモンド社)、『2022――これから10年、活躍できる人の条件』(PHP新書)、『成功者の告白』『人生の旋律』(講談社)、『非常識な成功法則』『不変のマーケティング』(フォレスト出版)、翻訳書に『マインドマップ for Kids 勉強が楽しくなるノート術』(ダイヤモンド社)、『あなたもいままでの10倍速く本が読める』(フォレスト出版)等、累計出版部数は200万部を超える。
神田 『絶体絶命でも世界一愛される会社に変える』を拝読しました。
石坂 ありがとうございます。
神田 ダイオキシン騒動で「地域から出て行け」と言われる中で、社長に就任されたのが2002年の30歳の時。社内外で壮絶な戦いのドラマを繰り返してきましたね。まさに波瀾万丈というか。
石坂 毎日が無我夢中で、正直、季節を感じることもありませんでした。
神田 スティーブ・ジョブスがこんな趣旨のことを言っています。
「ある出来事を経験しているときには、その意味などまるでわからない。しかし、あとから振り返ってみると、すべての出来事が人生において100%意味があったとわかる」と。
「石坂、出て行け!」と地元から大バッシングを受けたこと、突然社長に就任したこと、反発した社員の4割が辞めていったこと、そのときは意味などわからなかったでしょう。
石坂 頭の中が真っ白になったまま全力疾走しているような状態でしたから、正直記憶もあやふやなんです(笑)。
神田 でも、いまから振り返ってみると、1つひとつの経験が「ギフト」なのです。私はこれまで経営者を何万人も見てきました。経営者は、それぞれ自分の目指すべきストーリーを描きながら歩んでいきます。石坂社長の場合は、社長就任時のカオスのような状況で「絶体絶命でも世界一愛される会社に変える」というストーリーを描くわけです。
石坂 創業者である父とさまざまな葛藤・対立を経て、「永続企業にする」というミッションとともに、私は2代目社長(取締役社長)に就任しました。
石坂産業株式会社代表取締役社長。「所沢ダイオキシン騒動」最中に2代目社長に。地域から嫌われ、社員の4割が去る絶体絶命の状況から「脱・産廃屋」を目指し、社員教育を断行。12年かけて、トヨタ、全日空、日本経営合理化協会、各種中小企業、大臣、知事、大学教授、タレント、ベストセラー作家、小学生、中南米・カリブ10ヵ国大使まで、日本全国だけでなく世界中からも見学者があとを絶たない企業に変える。 経済産業省「おもてなし経営企業選」選抜。2013年末、首相官邸からも招待。財団法人日本そうじ協会主催の「掃除大賞」と「文部科学大臣賞」をダブル受賞。『心ゆさぶれ! 先輩ROCK YOU』(日本テレビ系)にも出演。ホタルやニホンミツバチが飛び交う里山保全活動に取り組み、JHEP(ハビタット評価認証制度)最高ランクの「AAA」を取得(日本では2社のみ)。「所沢のジャンヌ・ダルク」という異名も。本書が初の著書。(撮影:平山順一)
経営者に共通して流れる「周期リズム」
神田 でも、その後の歩みは決して平坦なものではないですよね。
石坂 はい。「脱・産廃屋」を目指し、周囲に粉塵の出ない新型プラントをつくろうと許可申請に行ったら、役所の人に「おたくはいま問題の産廃屋、石坂さんでしょ? 許可を出したら俺のクビまで飛んじゃう。産廃屋に出す許可はないね!」と門前払いにされたこともありました。
社長就任時は、社員たちからも相当嫌われていました。事務や営業をしていた社長の娘が、バッシング騒動の中、突然社長になったわけです。「あいつに現場のことがわかるのかよ」と、社員は不満や不信感を感じていたと思います。社長就任後すぐ私の車のフロントガラスが粉々に割れたことがありました。
神田 「絶体絶命でも世界一愛される会社に変える」ことを目指しても一直線にそうなるわけではない。経営者には共通の周期リズムが流れています。それは経営者の成長のリズムです。1999年から始まるダイオキシン騒動の時期は、まさに石坂社長が新しい課題に出会う時期でした。メディアや地元からバッシングされ、産業廃棄物の焼却もやめざるをえなくなる。ゼロどころか「マイナス1万」とも言える苦しい状況で、「絶体絶命でも世界一愛される会社」というストーリーを思い描いて社長として船出する。でも、その時期は周囲に誰も味方がいない時期でもあります。社長の人格形成という意味においては必要な時期ですが……。
石坂 たしかに、ダイオキシン騒動がなければ、私が社長になることもなかったでしょうし、「脱・産廃屋」を掲げて、95%の減量化・リサイクル化を図るという現在のプラントをつくることもなかったかもしれません。