「東宝歌舞伎五十回記念特別公演」(1980年10月)のチラシ。「東宝歌舞伎」はこの3年後に終わる
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 長谷川一夫(1908-84)は1920年代のトーキー映画初期から活躍していた二枚目俳優で、戦後は舞台、テレビドラマの主演も数多い。映画の出演作は300を超えているそうだ。2014年に亡くなった高倉健が200本超だそうだから、300という数に圧倒される。

 酒井喜一郎が「東宝歌舞伎」の舞台監督に初めて就いたのは1963年5月で、この時点で「東宝歌舞伎」は12回目、9年経っていた。長谷川一夫は演出や舞台装置、照明まで目を配る役者だった。酒井は長谷川から学んだ舞台の技術がたくさんあるという。

「東宝歌舞伎」は長谷川一夫が病気で入院する1983年まで、20年間に54回続いて終わる。「東宝歌舞伎」イコール長谷川一夫だったのだから、「東宝歌舞伎」は長谷川一夫の他界とともに終幕となったわけだ。

 長谷川一夫と東宝、松竹、大映の関係は複雑で、この連載の主題からはずれるが、記録のために要約しておこう(矢野誠一『二枚目の疵』巻末年譜を参照)。

・1913年(5歳)初舞台
・1926年(18歳)松竹キネマ入社(林長二郎)
・1937年(29歳)10月13日松竹退社、10月14日東宝入社。小林一三が直接交渉して移籍。11月12日に襲撃され、左の頬を切られた。松竹の意を汲んだ永田雅一(松竹系の新興キネマ常務、のちの大映社長)の差し金といわれるが未解決のまま終わる。実行犯は逮捕
・1938年(30歳)東宝映画に出演、林長二郎から長谷川一夫(本名)へ改名
・1941年(33歳)戦時統制下、映画会社は東宝、松竹、大映の3社に統合。長谷川一夫、新演技座を結成
・1948年(40歳)東宝退社、新演技座を法人とする
・1950年(42歳)大映入社(社長はあの永田雅一)、大映映画出演
・1954年(46歳)主演した大映映画「地獄門」でカンヌ国際映画祭グランプリ、翌年には米アカデミー賞最優秀外国語映画賞と衣裳デザイン賞を受賞
・1955年(47歳)第1回「東宝歌舞伎」出演

 戦後は大映で映画に出演し、東宝で舞台に立っていたわけだ。大映とは映画出演の契約だったので、東宝への演劇出演は問題なかったのだそうだ(矢野誠一、前掲書による)。

 1954年生まれの筆者にとっては映画全盛期の作品はまったく縁がなく、未見。「東宝歌舞伎」の観客対象でもなかったが、NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」で大石内蔵助を演じていた姿はよく覚えている。「おのおのがた」というセリフも忘れられない。今もあのときの内蔵助(長谷川一夫)の残像がちらつくほどだ。

 長谷川一夫は演出や舞台装置、衣装、照明にもくわしく、女優への助言も多かったそうだが、1974年には宝塚歌劇「ベルサイユのばら」を演出している。酒井によると、現在も長谷川の演出が一部で踏襲されているそうだ。

 その後、宝塚では「ベルサイユのばらパートII」(1975)、「ベルサイユのばらIII総集編」(1976)、「風と共に去りぬ」(1977)を演出、あるいは監修している。