前回は指揮者・塩田明弘さんがみた本田美奈子さんの歌唱技術について紹介した。今回は彼女を「ミス・サイゴン」のオーディションへ引き入れた東宝プロデューサー酒井喜一郎さんと、オーディションの現場にいた「ミス・サイゴン」プロデューサー古川清さんが語る「ミュージカル・スター本田美奈子誕生記」。現代舞台芸術史、1990年の一幕である。

「SHANGRI-LA」から「命をあげよう」へ

シングル「SHANGRI-LA」(許瑛子作詞、中崎英也作曲、東芝EMI、1990年7月)「ミス・サイゴン」オーディション直前に発売したポップス

 本田美奈子さんが「ミス・サイゴン」のオーディションに応募したのは1990年9月である。ポップスとロック歌手として有名だったが、すでに人気のピークを過ぎていたことは連載第1回に書いた。ありあまる才能の噴出をいなしながら、この年はライブやテレビでポップスから演歌(★注①)まで歌っていた。

 90年7月2日にポップスのシングルCD「SHANGRI-LA」(許瑛子作詞、中崎英也作曲、東芝EMI)を発売した。この曲は軽快なポップスだがAm(イ短調)で書かれている。最高音は二点ハ(hiC、ド)だから従来の本田さんの音域だ。

 88年から89年まで女性ロックバンド(Minako with Wild Cats)で2年間、激しくシャウトしていたが、「SHANGRI-LA」を聴くとそれまでよりも音色に透明度が増している。少女から大人の歌手へ声も成長していて十分魅力的だった。しかし、オリコンの「シングル売り上げランキング」では62位が最高だった。

「SHANGRI-LA」を収録したベスト盤「SHANGRI-LA BEST POP COLLECTION」(東芝EMI、1990年12月)

 レコード会社や楽曲の問題というよりも、1990年の時点でテレビを舞台にしたポップス=歌謡曲の時代は終わっていたのである。11年8ヵ月続いたTBSの「ザ・ベストテン」は89年9月28日放映の第603回で終了していた(第1回放映78年1月19日)。

 オーディオ機器が高価でサラリーマン男性のホビーだった80年代半ばまで、無料で家族全員が聴くことのできるテレビがポップス流行の主たる媒体だった。

 しかし、80年代後半から安価なCDプレーヤーが普及し、ポップスは孤独に聴く音楽になっていった。89年はバブル経済の頂点である。CDのハードとソフトはむしろ急激に全体の売上げを増やしていたが、全国民がテレビで同じ曲を聴く習慣はなくなっていた。家族全員が1台以上の安物プレーヤーを持ち、聴く楽曲のジャンルは分散していった。ヘッドホン・オーディオの普及もあり、スピーカーすら家庭から消えていく。

 したがって80年代にテレビで活躍していたポップス(歌謡曲)歌手のレコードが売れなくなるのは当然の帰結でもあった(テレビとポップスの歴史については、いずれ詳述します)。

★注①本田美奈子さんの演歌…90年4月22日放映のフジテレビ「ミュージックフェア」で「北の宿から」(都はるみ)と「愛の終着駅」(八代亜紀)の2曲を、きれいにコブシを回しながら着物姿で歌っている。90年10月31日放映のNHK「燃えてトライアル」という番組はオリジナルの演歌をつくる内容で、本田さんがやはり着物姿で歌っていた。秋元康さんが作詞した「サンタのいないクリスマス」である。

このNHKの番組を見たある大手レコード会社の社長が所属事務所の社長、高杉敬二さんに電話して、「演歌歌手として当社からデビューしないか」と言ってきたそうだ。高杉さんによれば「丁重におことわりした」そうだが、「日刊スポーツ」(90年11月17日付)が、このレコード会社に「移籍して演歌歌手へ」と報じている。この記事には演歌(CD)の発売日まで書いてあったので、読者は信じ込んだかもしれない。それほど「演歌が好きだ」と広言し、しかも上手だったのである。演歌専業に変身するつもりはまったくなかったそうだが、さまざまなジャンルの楽曲を歌うことにしていた。