本田美奈子が1992-93年の「ミス・サイゴン」初演のオーディションに合格し、アイドル歌手・ロック歌手からミュージカル女優へ転じたことは何度も書いてきた。彼女のアーティスト人生を一変させたこのオーディションへ応募することを勧めたのが東宝のプロデューサー酒井喜一郎である。そして合格後に「ミス・サイゴン」のプロデューサーとして本田美奈子を開花させたのが古川清だった。この2人のプロデューサーを通してポピュラー音楽史を別の角度から観察してみる(文中敬称略)。

「ミス・サイゴン」古川清プロデューサーの歴史

 酒井喜一郎は1936(昭和11)年生まれ、古川清は1939(昭和14)年生まれと、酒井のほうが3歳年長だが、東宝演劇部へ入って舞台監督として実演に就いたのは古川が半年ほど早く、大学卒業直後の1962年5月、酒井は同年12月からだった。

開業(1911年)当時の帝国劇場。歌劇部(洋劇部)は1915年に解散し、オペラ(オペレッタ)は形を変えて浅草で隆盛することになった(写真・国立国会図書館ホームページより)

 古川は2003年の「レ・ミゼラブル」プロデューサーを最後に41年間働いた東宝を辞めている。現在は北九州市ソレイユホール館長だ。酒井は現役の東宝演劇部プロデューサーとして、2015年もミュージカル「南太平洋」の制作に当たる。

 古川清が東宝へ入社したきっかけは、父親の急死だった。

 彼の父親は古川ロッパ(1903-61)である。コメディアン、歌手、俳優として近代日本演劇史にその名を残す人だ。

 ロッパは小倉中学から早稲田中学へ転じると10代で映画評論を書き始める。早稲田大学高等学院在学中も執筆を続け、映画にも出演したそうだ。早大文学部へ進学すると、学生でありながら文芸春秋へ入社し、雑誌「映画時代」の編集者となる。菊池寛(1888-1948)が入社させたという。文筆でその名を知られていたのであろう。

 宴会芸で声帯模写をはじめる。声帯模写という言葉もロッパの発明なのだそうだ。じつは歌もうまい。豊かな声量で音程もリズム感も正確である。

 1920年代は映画評論や雑誌の編集で生活していた。すでに文芸春秋は退社している。菊池寛や小林一三(1873-1957)に宴会芸を評価されてコメディアンとして舞台に立ったのは1930年代で、浅草の劇場に登場することになる。

 1933年4月には劇団「笑いの王国」を結成し、浅草の常盤座などで人気を得た。浅草の「軽演劇」である。8月、浅草国際劇場文芸部で脚本を書いていた菊田一夫(1908-73)が「笑いの王国」へ座付き作家として移り、ロッパのための作品を大量に書いた。