賠償金を大幅に減額した
ヤング案への移行

 シュンペーターがボン大学教授としてオーストリアから移住した1925年のドイツは、パリ講和会議(1919年)以来の経済危機と賠償金問題、そして政党政治の混乱に揺れていたのだが、どうにかドーズ案(1924年)による賠償金分割払いの方法が決まり、インフレも沈静化し、1929年まで経済成長を続ける安定期の入口にあった。

 ドーズ案にのっとってドイツ政府は1928年末までに計60億金マルクを支払ったが、ここでお手上げ状態になる。なにしろ、賠償金年賦の方法は決まったものの、総額は1320億金マルクという天文学的な数字のままだったからである。

 そこで、ドイツのシュトレーゼマン外相の主張により、再び金融専門家委員会を設け、賠償金問題の処理を再検討することになった。1928年9月16日のことである(★注1)。今度の委員長はドーズ委員会にも参加していたオーウェン・ヤング(米GE会長)だった。委員の顔ぶれを見てみよう。

 ヴェルサイユ条約を批准していない米国は民間人を送り込む。委員長ヤングのほか、J.P.モルガンⅡ世(★注2)、J.P.モルガン商会のパートナー、トマス・ラモント(★注3)、英国からはイングランド銀行理事ジョサイア・スタンプ(★注4)、そしてフランス銀行総裁エミール・モロー(★注5)、イタリアの資本家ジョヴァンニ・ピレリ(★注6)、ベルギー・ソシエテ・ジェネラル副社長エミール・フランキ(★注7)である。

 前回のドーズ委員会と違うのは、連合国でも利害関係の小さい日本、そして債務国のドイツが参加したことである。日本からは前大蔵省財務官・森賢吾(★注8)、日本銀行名古屋支店長・青木隆(★注9)、ドイツはライヒスバンク(帝国銀行)総裁ヒャルマール・シャハトを派遣した(★注10)。

 今回の専門家委員会は1929年2月11日に始まり、夏までかかってプランを策定する。これをヤング案という。ヤング案を受けて政府代表者会議が8月6日からオランダのハーグで開催された。参加国は独、日、仏、英、伊、ベルギーのほか、ギリシャ、カナダ、セルビア、ルーマニア、ポーランド、ユーゴスラヴィア、ポルトガル、チェコスロヴァキア。米国はオブザーバーとして駐仏大使を送り込んだ。