部下に見限られた私自身の苦い体験
私にも、同じ失敗の経験がありました。30代の頃、社員教育教材開発の研究室の責任者をしていたときのことです。
大学の後輩ということもあって、その部下にはことのほか目をかけていました。部下は途中入社で、研究室では他のメンバーと充分に溶け込んでいませんでした。そういうこともあっていろいろとコミュニケーションの場は設けるように努力しました。
ですが、それはうわべだけのことにすぎなかったのです。
居酒屋で、部下に期待を伝えました。
「君が頼りだ。はっきり言って、古いメンバーもいるが、ほんとに戦力になっていない。君が新しい感覚でどんどん提案して職場をリードしていってほしい」
「そうですか。頑張ります」
あとで気がついたことでしたが、部下の反応に何となく力強さがありませんでした。
その一週間後、部下は辞めたいと言ってきました。実家は新潟でしたが、実家の鉄工所を継ぐという理由でした。あんなに力を貸すよう約束したのにという思いと、実家を継ぐのなら仕方がないというあきらめがありました。
ところが10年後に、テレビを見ていて、アッと思いました。
その部下が、情報誌の編集長として出演していたのです。うまく騙されました。家業を継ぐというのは、辞めるほんとうの理由ではありませんでした。
会社にも、仕事にも、おそらく管理者の私にも満足できないものがあったのです。管理者としての自分には足りないものがあったのです。
なにが足りなかったのでしょうか。その後、活躍している彼に辞めた理由をあらためて聞いたわけではありませんので、いまだにはっきりしたことは分かりません。
いま思うことは、私自身が人間的に未熟でした。部下の気持ちをすくい取る器量に欠けていたのです。それはその部下に対してというより、それ以外の部下、気に入らない部下、相手にしたくない部下には、私は冷たい人間でした。
それを見ていて、きっとその部下は私の人間的器量、管理者としての器の小ささを敏感に読み取っていたに違いありません。私との人間的しがらみができないうちに辞めようと決意したのでしょう。つまり部下に見限られたのです。
研修で、悩んでいた課長に私の体験を話したら、納得していました。その課長も自分の器量の小ささを反省していました。