東京帝国大学経済学部助教授・河合栄治郎は満を持してシュンペーターに東大招聘を切り出す。不遇をかこっていたシュンペーターは大いに喜んだ。大物シュンペーター獲得に成功したドイツ留学中の東大教官たちも祝杯をあげることになったのだが――
河合栄治郎の日記から続けよう(★注1)
外国人教師招聘に動いた
河合栄治郎の日記
大正13年(1924年)
12月16日
……3時にシュムペーターに会う約束なのが、路が中々分からずに25、6分遅れて往ったら先方が遅れている。これは旨いと思い、直ちに之を利用して、午後の会見を夜の7時半からにして貰った。これは偶然の成功であった。4時ホテル於てミーゼスを迎えた。散歩をしようと云うので、一緒に出て話した。要するにまだ確定的の返事は出来ない。そして段々きくと、可能性は少ないらしい。ホテルに引き返して茶を飲みつつ話をして、遂にシュムペーターに話を切り出すことを認めて貰うことにし、之でウィーン滞在がともかくも効果を持つことになったのは嬉しかった。
7時半シュムペーター氏を訪うた。話は大学の事から始めた。氏は解答は10日を与えて呉れと云ったが、自分の現在の境遇を脱しようと思っていた矢先の話で、実に嬉しいと幾度か云った。自分も亦かなり押し切った所まで決心を吐露した。話の後で昨日の質問に戻り、マルクスの話と当地に於ける社会主義の施設(★注2)の世評などして同氏のcarによって送られてHerrein Hof Cafeに往き、マックス・アドラー(★注3)に会った。……10時半ミュンヘン行の汽車に乗り込んだ。
シュンペーターは大いに喜び、10日後に回答すると言っている。面白いのは、シュンペーターに声をかける了解をミーゼスから得ていることだ。
シュンペーターから前向きの第1次回答を聞いて意気揚々とウィーンを引きあげた河合は、翌12月17日にザルツブルク、ミュンヘンを経由して夜7時にハイデルベルクに着く。ここで4泊して留学中の友人たちに会い、当地で客死した糸井靖之(同僚の東大経済学部助教授)の滞在先を弔問している。そして12月21日フライブルクへ行き、ブリーフス教授に会う。