もちろんバカロレアが知識偏重型から知識運用型にスムーズに移行できたわけではありませんでした。19世紀中盤には高校の知識レベルを超えた出題もされる等、その時の文相が「記憶力の体操」と揶揄するくらい、知識偏重への寄り戻しがあったそうです。第2次大戦後になって、問題づくりの主導権を大学教員から高校教員に段階的に移していきながら、90年代後半に入り、平均的な知識の理解を問う現在の形式に改まっていきました。

詰め込みでは養われない「メタ認知」能力
ピケティの名前を言えるだけではダメ

 さてフランスでは、先述したようにOECD本部も訪れ、教育・スキル局のシュライヒャー局長らと新しい教育モデルについて政策対話を行ってきました。

OECD・カプファーラー事務次長(奥の左から3人目)との政策対話の模様

 俎上に載ったのは、テクノロジーの進歩に伴う、社会で求められる人々の職業的スキルの変化と、それに教育がどう対応するかです。

 シュライヒャー局長との政策対話で出てきたキーワードの一つが「メタ認知」です。自分自身の認知活動を客観的にとらえ、評価し、コントロールする力のことを言いますが、メタ認知力の高い人は、複数の事象を目の当たりにしたとき、具象と抽象を自由自在に認識しながら、共通した要素を見抜けます。

 イノベーションを起こすような人材は、このメタ認知能力が高いと言えます。特に日本人が得意とする改良型のイノベーションではなく、全く新しいものを提案する非連続型のイノベーション、それこそアップルのジョブズのような革命的製品を生み出すのは、分かりやすい事例といえます。

 もちろん、皆がジョブズになれるわけではありませんが、ウェブが広がり、情報量が爆発的に増える現代社会にあっては、“ググれば”(グーグルで検索すれば)誰でも容易に知識が手に入ります。ですから時事問題で、ピケティの名前や著書の名前を言えるだけではダメで、ピケティの突きつけた格差論の意義とは何か、日本にそれが当てはまるのか、といった問題点を自分なりに整理し、「自分の言葉」で語れるようでなければ、本当に知識を使いこなしているとはいえないのです。

 そして、そうした知識の使い方は、工業化社会時代の“名残”といえる詰め込み型の教育では身に着きにくいのです。