〈国会記者と代議士の関係は、ローマ人と芝居の関係に等しい。つまりかれらの力で成功を作りだすこともできるし、芳しからぬ議会内の評判に長いあいだ抵抗することも不可能ではない。国会記者は政治を動かしている実力者と昵懇の間柄で、政界の面白い零れ話をよく知っている。この種の余話は活字になることはめったにないが、世に知られるだけの価値は十分に持っている〉
大阪でのテレビ出演を終えた筆者は、旧知の大塚展生・朝日放送広報部長との会合場所に向かっていた。フルブライト留学生で、クリントン政権時代のメディア戦略にも詳しい大塚氏から、突然、一冊の古ぼけた本を渡されたのは、待ち合わせのレストランのテーブル席に着いてすぐのことだった。
「上杉さんの書いた『ジャーナリズム崩壊』を読んでいて思い出した本があった。古い本だが極めて興味深い内容だ。是非、読んでみてほしい」
そう言って手渡された本の表紙には『ジャーナリズム性悪説』(ちくま文庫)と書かれている。著者はバルザック。そう19世紀フランスの文豪、あのバルザックのことである。
「バルザックとジャーナリズム?」
怪訝な気持ちでページを括ると、冒頭のくだりが目に飛び込んできた。
バルザックは、19世紀のフランスに生きた作家だ。ナポレオン時代をくぐり抜けているわけだが、彼の作品に古さは感じられない。とりわけ、ジャーナリズムのあり方についての批評は、笑ってしまうほど150年後の日本の現状にも当てはまる鋭さを持っている。
〈各紙の国会記者はお互いに知り合いである。というよりも知り合いにならざるをえないと言ったほうがよいかもしれない。なぜならば、かれらは国会の記者席に固まって座り、若いにもかかわらず、そしておそらくは若いがゆえに、毎日国会で行われる果し合いの審判をつとめているからである。『ナシオナル』の記者が『ガゼット』の記者にむかって「おたくの先生いまとちったよ」といったようなことがよくある。それは、演説家が使う資料や引用を、若い記者たちが、走り書きにして山のように演壇まで送ってやっているためである。この記者席の指揮のもとに行われた論戦や審議も少なくない。そこでは、次のような嘆息や歓声がよく聞かれる。「あーあ、ちゃんと予習させといたのになあ(時には、その予習の相手というのが大臣のこともある)。よし、いいぞ。うまい。切り抜けた。やれやれ」〉(『ジャーナリズム性悪説』バルザック/鹿島茂・訳)