今の日本は「コミュニケーション強迫症」にかかっているのではないだろうか。

 誰も彼もが、互いにコミュニケーションをとり共通のビジョンを持ってコンセンサスを得なければならないと強く思い込んでいる。そのいずれもがカタカナ英語。ちょっと、気色悪い。

 そもそもコミュニケーションという概念は日本語に存在していない。存在していないものを行えと、なんだか無茶な要求をされているようだ。

  しかも、それができないということは「コミュニケーションの欠如」であり、存在していない概念を実行できない場合には「コミュニケーション不全」などと呼ばれる。

女性の話し合いは
「私の望む答え」を出すまで

 コミュニケーションをとるために必要なのは、そう、話し合いよ! とばかりに、なんでもかんでも話し合いを求める人もいる。そして話し合いが得意なのはいつも女性である。

 彼女たちの求める話し合いとやらはとても恐ろしい。

「ちょっと話があるの、そこへ座ってちょうだい」

 彼女からこんな風に言われたら、男性は誰だって身構える。もしかすると叱られるのではないか、ひょっとすると例の件がバレたのではないかと緊張する。世の多くの男性には、いつもなんらかの心当たりがあるものだ。

 腹をくくってコミュニケーションとやらをとるため話し合いに応じてみようか。しかし、うまくいかない。なぜかいつも彼女を怒らせてしまう。

 彼女たちが望む話し合いとは、あなたが「私の望む答え」を出すまで終わらないものだから、そりゃうまくいきっこない。

 彼女の意に反する提案は即座に却下される。勇気を出して彼女の言葉に反論を試みれば、ここぞとばかりにやり込められる。いずれあなたは、彼女の発言が途切れるまでただうなずいているだけのほうがまだマシだと気づく。

 それがコミュニケーションにおける大失敗の原因だとは気づかない。彼女の話を聞いただけで問題解決できたと早合点し関係性のズレに気づきにくくなるのである。

 コミュニケーションを恐れなくてもいい。相手の言葉に戦々恐々とするのではなく、あなた自身の思いを自ら言葉に表してみよう。言葉を発するのは、相手に伝えるためだ。