実際、音楽監督の仕事を始めてみると、市を牛耳る長老たちは芸術に疎く、バッハは友人への手紙にこう記しています。「奇態な、音楽を大切にしない行政当局のせいで、小生はほとんど常に腹立ちと嫉妬と迫害の中で生きてゆかねばならない」

 当時、キリスト教信仰の厚いこの都市では、毎年2月の四旬節以降40日間は、宗教音楽も含め歌舞音曲を禁止し、復活祭の聖金曜日に「ヨハネ福音書」を朗読することに決まっていました。

 そして音楽監督に就任して初めて迎える復活祭の季節、バッハは職務上の必要上、新約聖書「ヨハネによる福音書」を題材にした受難曲を作曲します。仕事上のプレッシャーが火事場の馬鹿力を生んだのでしょうか。「ヨハネ受難曲」は完成し、復活祭当日の聖金曜日(1724年4月7日)に初演されます。

ヨハネ受難曲

 この曲は、バッハの実力を天下に示す傑作となり、世紀を超えて輝く宗教音楽の最高峰になりました。

 お奨めは、ガーディナー指揮、イギリス・バロック管弦楽団盤(写真)です。

(3)辺境の地で創造力を刺激
アントニン・ドヴォルザーク「チェロ協奏曲」

 1841年、ドヴォルザークはボヘミアの肉屋の息子として生を受けます。

 才能を開花させ、祖国を代表する偉大なる作曲家となっていた1891年春。プラハ音楽院教授となったドヴォルザークは、ニューヨーク・ナショナル音楽院の創始者・理事長であるサーバー女史から院長就任を要請されます。しかし、当時の米国は、欧州から見れば発展途上の辺境です。ドヴォルザークは固辞します。

 しかし、女史は諦めません。米国の国民音楽振興のためには、国民学派の巨頭と目されるドヴォルザークの力が絶対必要だとして、プラハ音楽院の25倍もの年棒を提示します。弟子たちまでも、鉄道好きのドヴォルザークに対し、米国の大陸横断鉄道の話をして米国行きを勧めたとの逸話もあります。そんな熱意にほだされて翌92年、ドヴォルザークは大西洋を越えます。

 結果、ドヴォルザークの米国滞在は2年半に及びましたが、慣れぬ生活で苦労の連続。当時は、電話もネットもありません。激しいホームシックに襲われます。そんな中でも、南北戦争後の新国家の活力、そして黒人霊歌の音階やリズムに魅了され、故郷に共鳴する新大陸の響きにより創造力を刺激されました。

 そして、アメリカとボヘミアを融合させ完成したのが「チェロ協奏曲」です。チェロ特有の深い滋味を湛えた音色で、叙情的な旋律から超絶技巧まで、懐かしくも新しい音楽が溢れます。

ドヴォルザーク

「これ以上のチェロ協奏曲は書けない」とコメントしたブラームスが、自分の作品を諦めたほどです。

 こちらは、カラヤン指揮ベルリン・フィルの伴奏で歌い上げるロストロポーヴィッチ盤(写真)がお奨めです。