2015年は戦後70年という節目の年。安保法案、憲法改正、領土問題、歴史認識、米軍基地など、多くの課題を抱える今こそ、今日の日本をつくった戦後70年の歴史を学び直す必要がある。代ゼミ人気No.1講師が圧倒的にわかりやすく、面白く教える戦後史再入門。第1回は、敗戦後の米軍占領下におけるGHQのシナリオについて。

GHQ最高司令官マッカーサー来日

ダグラス・マッカーサー

 1945年8月30日、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥が、厚木の海軍飛行場に、愛機「バターン号」で来日した。コーンパイプにティアドロップ型のレイバンサングラス。彼のトレードマークは、露骨なまでに威圧的だ。彼はあたりをじろりと一瞥し、思った。

「日本か、こいつらにはかつて、フィリピンで煮え湯を飲まされたな」

 マッカーサーは、太平洋戦争時、連合国の南西太平洋地域総司令官としてフィリピンのルソン島の戦いで日本軍に敗れ、7万人以上の兵士を残してオーストラリアに“逃亡”した。バターン半島に取り残された兵士たちは、収容所に移動する際にマラリアや疲労で次々と死に、到着時には五万人余りにまで減っていた(「バターン死の行軍」)。

 このときマッカーサーは「I shall return(俺は絶対戻ってくる)」と言い残していたが、ついに本当に戻ってきた。さあ、この日本人たちを、どう料理してくれよう――。

 マッカーサーは、ハリー・S・トルーマン大統領からGHQ(連合国最高司令官総司令部)の最高司令官に任命されていた。GHQはポツダム宣言の執行のためにつくられた連合国の機関で、米英中ソ仏など勝ち組一一ヵ国で構成する「極東委員会」の下に設置されていた。

 任務は、その極東委員会が決定する日本占領政策を執行すること。ただ実際には、GHQメンバーの大半がアメリカ人だったため、事実上、アメリカ政府の意向に基づいて行動する機関であった。

 マッカーサーが日本統治で採用した方式は「間接統治」。これはドイツで行った「直接統治」(GHQが直接命令する形)と違い、GHQが日本政府を「形だけ」残し、それを裏から操るというものだった。

 なぜ、マッカーサーは「間接統治」を選んだのか? それは日本人が天皇崇拝のおかげで無政府状態にならず、みんな粛々と敗戦を受け入れていたからだ。なら、その威光を利用して統治するほうがスムーズにいく。しかも、そのやり方なら、GHQがゴリ押しでやらせる政策も、表向きは「日本の政治家が決めている形」になるため、GHQは反感を買いにくい。実に巧妙だ。

 そもそも占領統治とは、GHQに主権(=国家の支配権)を握られている状態だから、その間、日本の重要政策は「すべてGHQに決められていた」のだ。だから一見、民主的に見える選挙も首相の選出も、一連の民主的な政策も、「日本だけで決めた」ものなんてない。アメリカの大番頭であるマッカーサーが「いいよ」と言わない限り、何一つできなかったのだ。

 でも間接統治だと、そこが巧妙に隠される。ギャラリーにはすべて日本政府がやっているように見える。実際には、そのすべてが「原作・脚本:GHQ/出演:日本政府」であるのにだ。

 いいドラマを見て「脚本家すごい」と気づくのは、制作サイドか一部のマニアだけ。大半の国民は演じている主演俳優だけを見て、「すごい」と思う。当時の主演俳優は吉田茂。彼が占領統治下で圧倒的に長く首相を務められたのも、もちろんアメリカに従順だったからだ。主権を握られるというのは、そういうことだ。

 さて、日本に来たその日、横浜のホテルニューグランドに泊まったマッカーサーは、仮のGHQ本部を横浜税関ビル(通称クイーン)に置いた。そして、9月2日、戦艦ミズーリ号での降伏文書調印式に立ち会った彼は、その後、皇居前の第一生命ビルにGHQ本部を移し、ここから本格的な占領統治を始めた。

戦艦ミズーリ号での降伏文書調印式