2015年10月21日、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が描いた未来の日付に、映画に登場する技術「ごみを燃料に動く」を実現し、デロリアンを走らせた男――それが、小さなベンチャー「日本環境設計」の社長、岩元美智彦氏だ。
30年間抱えつづけた夢をかなえた岩元氏だが、そもそも技術者でも科学者でもない。にもかかわらず、なぜ「服からバイオエタノールをつくる」というアイデアを思いつき、その技術を実現することができたのか? 著書『「捨てない未来」はこのビジネスから生まれる』から、専門家すら驚くその技術誕生のきっかけに迫る。
「服から燃料できるんちゃう?」
「これは、いけるかもしれない……」
2006年の中頃、ある新聞記事に私の胸は高鳴りました。
その記事は当時アメリカで大きなうねりとなっていた「バイオエタノール」についてのものでした。トウモロコシから、エタノールなどのバイオ燃料ができる。温暖化が深刻化し、CO2の削減が喫緊の課題となっていた欧米の救世主として、急速に市場を拡大している――。そんな内容でした。
人間が食べられるものを燃料に変えるのは少しおかしいのでは、と思いましたが、この記事を読んでいて、あることがひらめきました。
その日の夜、その直感をぶつけるため、私は何かに憑かれたようにブツブツ言いながら、約束の居酒屋に向かっていました。
「トウモロコシからバイオエタノールがつくれるんなら、同じ植物の『綿』でできた服からもバイオエタノールができるんちゃう?」
酒の席での「バイオエタノール談義」が原点に
「高尾くん、ちょっとこの記事読んでみて!」
その日、酒の席に誘ったのは、後に一緒に会社を立ち上げることになる高尾正樹でした。もともと、とある異業種交流会で出会った高尾は、このとき東京大学の大学院に在学する技術者のタマゴ。年齢も、私よりひと回り以上若い当時26歳です。
当時42歳の私とは、ひょっとすると親子でも通るくらい年が離れていますが、年齢も得意とする分野もまったく異なるこの青年とは妙に馬が合いました。ことあるごとに彼を飲みに誘い、「繊維リサイクルをやりたいんや」と、酔いどれオヤジの繰り言のように、高尾に熱く語っていました。
いつものように彼と飲んでいた最中、私はこの日の最大の目的を思い出し、カバンから冒頭の新聞記事を取り出して高尾に見せました。
「どう思う?」
「どうって……これが何ですのん?」
大阪出身の高尾は、その当時も今と変わらず関西弁で、私の問いかけの意図を探るようにそう切り返してきました。ちなみに、私は九州出身ですが、高尾と話すときはなぜか関西弁です。
「いや、トウモロコシっていうたら植物やろ。植物からバイオエタノールがつくれて燃料になるんやったら、綿からもバイオエタノールをつくれるんちゃうかと思ってな」
「たしかに、綿も植物ですからね」
「そやろ? ってことは、今は燃やして捨てている綿の服を集めてバイオエタノールをつくったら、新しいリサイクルができるってことになるやろ? それってオモロイと思わへん?」
「ホンマですね。岩元さん、それめちゃくちゃオモロイですね」
「そやろ。これやりたいなぁと思って。どうやろ、これ、できそうかな?」
「まあ、いけるんちゃいますかね」
「そうか、いけそうか……。ほな、オモロそうやし、服から燃料つくってみるか!」
綿製品は、繊維製品の中でもとくにリサイクルが遅れています。綿は繊維製品全体の4割ほど(およそ80万トン)を占めますが、そのうち1割程度が、雑巾のような捨てる一歩手前の形で再利用されているにとどまっています。つまりほとんどの綿製品が、雑巾にすらならずにただ捨てられているのです。
使わなくなった衣料品を捨ててしまえば、ただの「ごみ」でしかありません。それぞれの自治体は、お金をかけて「ごみ」を燃やしたり埋めたりしていますが、衣料品からバイオエタノール(燃料)になるとなれば、販売してお金をもらえる「資源」になります。
服を原料に、クルマを走らせ、工場を動かし、飛行機を飛ばす燃料をつくることができるのではないか――。
そんな私の妄想めいた思いつきに、高尾もこのときばかりは乗ってきてくれました。