勝ち続けても、
「前」に進めず
かたや、謙信から「たいしたことないな」と蔑まれた信長はといえば、68戦中、49勝15敗4分で、確かに謙信に比べれば、勝率はあまり高いとは言えない(77%)かもしれません。しかしながら、信長は岐阜城を押さえ、「天下布武」という“戦略”を掲げるや、常に京都を見据え、背後の憂いを断つため、徳川家康と同盟を結び、上杉・武田と友好を結んで、その力をできる限り京都に集中させています。
信長は、常に「一般方向、京都!」を見失うことなく力を注いできたことで、たとえ勝率は悪くとも、それをカバーして余りある成果となって返ってきたのです。こうして、信長が一歩、また一歩と天下へ近づいていく中、謙信は連戦連勝を重ねながら、一歩も前に進むことなく、ただ歳だけを食んでいったのでした。
天正5年(1577年)。そんな対照的な2人が手取川で一戦交えたのです。結果はすでに述べたとおり。おそらくは、この信長との一戦で、謙信、何か感じるものがあったのでしょう。
彼は春日山城に帰還する(12月18日)や否や、その5日後には、ただちに次なる遠征に向けて大動員令を発しています(12月23日)。まるで、何かに追いたてられるように。その目標は現在明らかになっていませんが、おそらくは、織田軍に触発されて、本格的に上洛を目指すつもりだったと思われます。
「あやつ(信長)にできて、わしにできぬことなどあるものか。わしも若くない。今こそ、永年の夢を叶えん!」
こうして、天正5年の暮れは過ぎゆき、天正6年の正月がやってきます。謙信、数えで49となり、「人生五十年」といわれた当時、感慨深いものがあったのでしょう。
「今年でわしももう49か。はやいものじゃ……」。今までの自分の人生が走馬燈のように去来したのか、彼はここで一句詠みます。
「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」。
49年の歳月など、本当にあっという間だなぁ、という感慨を詠ったものです。
しかし、彼の上洛の夢はついに叶うことはありませんでした。いよいよ、出陣を6日後に控えた日。出陣の準備中に厠に立った謙信がいっこうに戻らないので、家臣が不審に思って様子を見に行ってみると、そこで謙信が倒れているのが発見されます。彼はおのれの誤りに気づくのがあまりにも遅すぎました。
才あらばこそ、
過ち見えず
どんなに優れた才も、常に「戦略(一般方向)」を見据え、それを有効に活用しない限り、せっかくの才も空回りし、時間の中に埋没し、腐ってしまいます。しかしその一方で、才能豊かなほど、その才に目を奪われ、自分の犯している致命的な過ちに気がつかないものです。
そして気づいたときにはもう晩年。謙信の人生はそうした教訓を教えてくれます。