「仕事でミスをする。結果が出ない。上司に怒られる」。そんな苦しい状況のときほど、投げやりにならず、新たな目標を立てて動くことが大事だと、歴史は教えてくれます。世界史5000年の歴史から生まれた「15の成功法則」を記した『最強の成功哲学書 世界史』から見ていきましょう。
35歳の若き皇帝。
その逆境時代とは?
ナポレオン・ボナパルト。18世紀の末、混迷を窮めたフランスに彗星の如く現れ、あっという間にフランスをまとめあげ、のみならず全欧に覇を唱えた「小さな巨人」です。西郷隆盛や吉田松陰といった幕末維新の偉人たちも、競って「那波列翁(ナポレオン)伝」を読みあさり、彼の人生に学んだといいます。
彼は16歳のときに軍人養成学校を卒業してからというもの、裸一貫で少尉から身を起こして、皇帝にまで昇りつめた破格の人物です。これほどの大出世といえば、日本では足軽から身を起こして太閤にまで昇りつめた豊臣秀吉が思い浮かびますが、彼は14歳で初めて仕官してから天下人となるまで、約40年を要しており、苦労人です。
それに比べてナポレオンはその半分の20年足らず、なんと35歳の若さで皇帝にまで昇りつめたのですから、その出世スピードの早さから、一見、順風満帆に人生を歩んでいったかのようにも思えますが、実はそうではありません。
彼が20歳の誕生日(1789.8/15)を迎える1ヵ月ほど前にフランス革命が勃発。さらに、23歳の誕生日の5日前には「テュイルリー宮殿襲撃事件(1792.8/10)」を目の前で目撃しています。まさにフランス革命の激動のど真ん中に彼は生きていました。ナポレオンも血気盛んな若者でしたから、こうして目の前で展開する歴史的事件の数々に、さぞや血湧き肉躍ったろうと思いきや。不思議なほど、彼は革命に興味を示しません。なぜでしょうか。
このことについて知るためには、彼の生い立ちについて知っておく必要があります。
若くして、
人生の目標を見失う
彼は、もともとコルシカ島の出身でしたから、血統的にはイタリア系で、生粋のフランス人ではありません。その彼がまだ母親に甘えたい盛りの9歳のころ、諸般の事情で親元を離れて単身フランスに渡ってきたのです。
ブリエンヌ陸軍幼年学校に入学させられたものの、新しい環境になかなか馴染めず、コルシカ訛りもとれなかったため、「田舎者」として同級生から格好のいじめの対象となります。小学生のころ、いじめられっ子だった彼が、その25年後、皇帝に君臨することになろうとは、誰も想像だにできなかったことでしょう。
最初から心をとざしていたためか、いじめられたからか、彼は人づきあいも悪くなり、無口で、ひとり黙々と本を読む少年となっていきます。そうした孤立した学校生活の中で、「ここフランスは俺の居場所ではない!いつかコルシカに帰って、故郷に錦を飾ってみせる!」という想いが悶々と、そして深く彼の心に浸透していくことになります。
彼が、目の前で展開するフランス革命になんら関心を示さなかったのは、そうした生い立ち故でした。また、当時のフランス将官はすべて上級貴族で占められていて、下級貴族でしかも生粋のフランス人ですらないナポレオンが、フランスで出世する可能性はほとんどありませんでした。そうした現実もナポレオンがフランスに関心を示さなかった理由のひとつだったのかもしれません。
「 革命騒ぎなどどうでもいい。私の関心は、それがコルシカにとってどう関係してくるかだけだ!」
そんな折、コルシカにパオリ将軍が亡命先のイギリスから帰国してきたとの報を受け取ります。
「パオリ将軍がコルシカに戻って来られたのか!?よし!私もすぐにコルシカに帰国するぞ!」
パオリ将軍。ナポレオンが生まれる前、コルシカ独立戦争で活躍し、「祖国の父」と讃えられていたコルシカの英雄で、ナポレオンは彼をたいへん尊崇していました。
彼はパオリ将軍を慕い、なんとフランス陸軍大尉の地位をあっさり放り出して、コルシカに渡島してしまいます。
しかし、彼は、現実の前に打ちのめされることになります。
永らくイギリスで亡命生活を送っていた老将軍(パオリ)と、フランスで青春を過ごしてきた青年将校(ナポレオン)では、あまりにも政治理念が隔たってしまっていたのです。たちまちナポレオンとパオリ将軍の関係は悪化し、ナポレオンは彼によってコルシカから追放され、命からがらフランスに舞い戻らざるを得なくなります。
帰国後、ナポレオンはなんとか原隊に復職できました。しかし、幼少時代からずっと思い描いていた「コルシカに錦を飾る」という夢が破れ、尊敬していたパオリ将軍には失望させられ、人生の目標を見失っただけではなく、今回のことでボナパルト家の全財産が没収されてしまいました。母と3人の弟と3人の妹を養っていかねばならず、ナポレオンは急速に困窮していきます。
挫折が、
幸運を呼び寄せる
精神的にも経済的にも大打撃を受けたことで、絶望感にさいなまれて虚無的になってしまってもおかしくありません。しかし、自分が飢えるだけならまだしも、母や弟妹たちを飢えさせるわけにはいきません。ナポレオンにとっては、悲嘆に暮れている時間が与えられなかったことが、かえってよかったのかもしれません。
「コルシカに錦を飾る夢は破れたが、ならば、今度はこのフランスで一旗揚げてやる!」
コルシカでの挫折によって初めて彼は「フランス」に目を向けるようになったのです。もしこのとき、なまじコルシカで成功していたら、彼はその一生をコルシカに捧げ、コルシカという小さな島の中で埋没して、彼の名が歴史に刻まれることはなかったことでしょう。
挫折もときに幸運となります。幸か不幸か、彼がコルシカに渡っている短い間にフランス情勢は激変していました。彼の留守中に革命は急速に過激化し、国王ルイ16世は処刑され、上級貴族たちがぞくぞくと亡命し始めていたのです。
「上」がごっそりいなくなったことで、コルシカ渡島前まで閉ざされていた出世の道が、突如として彼の目の前に拓かれていました。
「今なら、軍功さえ挙げれば出世は思いのままだ!
フランスで出世の道が切り拓かれたのなら、コルシカに拘る必要もない!」
人生というものは不思議なくらい、悪いことのあとには良いことがあるものです。
禍福は糾える縄の如し
人間(じんかん)万事塞翁が馬
しかし、多くの場合、人は失意の中にあっては自分の不幸を呪うことに心が奪われてしまって、幸運が舞い込んできていることに気がつきません。ナポレオンはそれを見逃さなかったのです。
次回は、そんなナポレオンが出世の階段をのぼる「きっかけ」となった出来事をご紹介します。
(次回に続く)