たとえば、地方銀行や信用金庫の行員・職員と話すと、メガバンク(大手銀行)の行員に対し、山田と同じような劣等感を持っていると感じることがある。三十数年ほど前に、大手銀行の役員と同窓であったことを口にする人もいた。その口調からは嫉妬を感じた。

 準大手以下の出版社や広告代理店の社員と話すときも、大手報道機関や大手広告代理店の社員に根強い劣等感を感じることが多い。総合商社と中堅の商社の双方の社員からも、優越感と劣等感を感じ取る。

多くの人が持っている
「劣等感」という幻想

 これらの意識の差は、あたかも「能力が高い」「能力が低い」ということで受け止めているようにも思う。しかし、筆者は思う。このような劣等感の前提となる認識は、実は幻想ではないのだろうか。

 たとえば、自分がいる会社よりも世間の価値観としてはレベルが高いと思える会社や、業界ランキングが上の会社に籍を置く社員がいたとする。あるいは、その会社に自分よりも学歴が高い人がいたとしよう。

 そのような社員が、自分よりも「能力」の点で優れているという思いには、明確な根拠がないということである。言い換えると、高校や大学受験で希望校に不合格であったとしても、あるいは新卒時の就職試験や中途採用試験で本命の会社を受け不採用であったとしても、そのことは「劣った能力の証明」にはなっていないのではないか。人生のある時期の、ある瞬間の「力の優劣」であったとしても、そこから「能力の優劣」にまで話を広げるのは、やはり論理的に無理がある。

 ところが、それにもかかわらず「自分は劣っている」と信じ込んでいる人が、多数いるように思えてならない。「劣っている」と思いたくないから、10代の頃の成績や偏差値、学歴にしがみつく人もいる。これが、前述の山田のようなタイプであり、筆者がこの二十数年の間に見てきた多数の人たちである。

 事実関係で言えば、たとえば地方銀行や信用金庫の行員・職員と、メガバンク(大手銀行)の行員の力量は違うはずだ。地方銀行の行員と信用金庫の職員のそれも、異なるだろう。業務の内容がそれぞれ違うのだから、そこで働く社員の力量が違ってくるのは当然である。そうした差により、仕事の力量に差がついたとしても、「劣った能力の証明」にはなり得ないと筆者は思う。

 そうした思い込みのベースにあるのは、連載第1回で取り上げた「日本の能力の捉え方」であると筆者は考えている。