介護離職は、キャリアと収入の中断だけではなく、本人の老後まで続く深刻な影響をもたらす。年収1200万円の会社員は、介護離職によって困窮し、路上生活と生活保護を経験した後、どのように希望ある現在を手にしたのだろうか。

路上生活を経験した元エリート男性が、1匹だけの家族だった猫と一緒に夢見た未来とは(イメージ写真)

介護離職による生活困窮は
どこまで「自己責任」?

 今回は、前回に引き続き、介護離職・住居喪失・路上生活・生活保護を経験した高野昭博さん(61歳)の経験と思いを紹介する。今回は、高野さんの住居喪失から現在までと、今後に焦点を当てる。

 流通大手・ブランド企業の会社員として有能さと仕事熱心さを評価され、年収1200万円を得ていた高野さんは、39歳のとき、母親の介護に直面することとなった。当初は父親と介護を分担し、仕事と介護のギリギリの両立生活を続けていた高野さんだが、父親が病気で入院したことをきっかけに、45歳で退職せざるを得なくなった。過労死する同僚が珍しくない職場での激務は、両親の介護との両立が、まったく不可能だったからだ。しかし皮肉にも、高野さんが退職した直後に父親が他界し、介護を必要とする家族は母親1人になった。

 このとき、高野さんはほとんど苦労なく再就職を果たすことができた。年収は500万円へと大幅ダウンしたものの、母親の介護に理解があり、前職の職務経験を評価してくれる企業であった。しかし5年後、その企業の経営状況の悪化に伴い、再び失職。「動いてないとおかしくなっちゃう」という高野さんは、とにもかくにも求職と就労を続けたが、正社員の立場や十分な収入からは、遠ざかっていくばかりだった。

 そうこうするうち、高野さんが53歳になった2008年、母親が亡くなった。14年にわたる介護生活には、一応のピリオドが打たれた。しかし高野さんの前には、自分自身の生活困窮という問題が立ちふさがることになった。

「仕事はずっと続けていたんですが、母が亡くなったときには、アルバイト的な仕事でした。手取り収入は、母の介護をしながらの就労で、月あたり10万円~16万円くらい。30年以上、両親と住んでいた借家の家賃は5万2000円でしたから、家賃を払うと、本当にギリギリの生活でした」(高野さん)

前回も紹介したとおり、その「ギリギリの生活」の中から、高野さんは母親の葬儀費用を捻出し、約100万円の質素な葬儀を営んだ。しかし納骨費用は捻出できなかった。それどころか、家賃の支払いも困難になっていった。