変装して勝ち取った代理店契約
昭和22年(1947年)11月のある夜のこと、一人の怪しげな男が、平野社長の泊まっている三条通の旅館の前に立っていた。
つけ髭をし、めがねをかけ、髪型を変えてはいるが、間違いなくそれは塚本幸一その人である。何度も旅館の人間に追い返されて顔がばれていることから、彼はその日、変装して現われたのだ。
寒いのに妙な汗が脇の下を流れてくる。我ながら妙なことをしていると思う。
だが思い切って玄関をくぐった。
そして出てきた女性に、うつむき加減で、
「神戸のもんやが、平野さんはいらっしゃるかな?」
と告げた。
「まだお帰りやおへんが、どうぞお入りください」
内心どきどきものだったが疑っている様子はない。
神戸の取引先には丁寧に遇するよう言われているという情報は正しかったようだ。彼女は2階の平野の部屋へ通してくれた。そしてしばらくするとお膳と酒が出てきた。
持ってきてくれた仲居には礼を言ったが、手をつけるわけにはいかない。じっと腕組みしたまま平野を待った。
待てども待てども平野は帰ってこない。結局、平野が戻ってきた時には午前1時を回っていた。
宿のものは寝ずに待っている。階下で玄関を開ける音がしたかと思うと、
「ああそうか、それはえらい待たせたな」
と話している声が聞こえてきた。平野の声だ。そして階段をのぼる足音が近づいてきたので、幸一は急いで変装を解いた。
ここがまさに正念場。鼓動は高まったが、腹は据わっていた。
「長い間お待たせしました」
部屋に入るなりそう言って詫びた平野は、平伏していた人間が顔を上げ、それが幸一だとわかると絶句した。