日本史#8

朝鮮出兵だけでなく、明や南蛮、天竺の征服まで構想していたとされる豊臣秀吉。天下統一を果たした秀吉が誇大妄想に取りつかれたためといわれてきた。しかしこの説に一石を投じた論文が話題となり、書籍化された『戦国日本と大航海時代』(中央公論新社)も版を重ねている。著者を取材した。(聞き手/ダイヤモンド編集部編集委員 長谷川幸光)

「週刊ダイヤモンド」2020年2月25日号の第1特集を基に再編集。肩書や数値など情報は雑誌掲載時のもの

「慶長遣欧使節」は失敗した使節として
外交史の対象から外された

――書籍では大航海時代のヨーロッパから話が始まります。ヨーロッパの列強が世界各地を植民地化していき、アジア、そして日本へとその手が伸びる過程は、読んでいて息詰まるような緊迫感があります。こうした、世界の動きの中で日本史の謎を解明しようと思ったきっかけは何だったのでしょうか。

 仙台市博物館が『仙台市史』という刊行物を制作していて、私は編集委員をしていました。そこで支倉常長(はせくら・つねなが)という武将の担当になったのです。仙台藩主の伊達政宗が1613年に実施した「慶長遣欧使節」を率いた人物ですね。

 調べているうちに、支倉常長や慶長遣欧使節というのは、日本史研究の中ではほとんど評価されていないということを知ったのです。

――教科書には載っていますよね。

平川新氏ひらかわ・あらた/専門は日本近世史。東北大学教授、東北大学東北アジア研究センター長、東北大学災害科学国際研究所の初代所長を経て、現職。著書に『紛争と世論』(東京大学出版会)、編著に『通説を見直す』(清文堂出版)など多数。

 1行くらいでしょうか。戦国時代にヨーロッパへ行ったという、イベントとしてはインパクトがありますからね。でもそれだけです。なぜかというと、結局、支倉らの貿易交渉は失敗に終わったためです。失敗した使節ということで、歴史的意義がないとされ、外交史の対象から外されたままでした。

 戦国時代から江戸時代にかけての外交というと、オランダや朝鮮や中国。スペインやポルトガルは、結局は徳川政権で追放されたため、外交関係は途絶えたと見なされました。

 でも次々とヨーロッパの列強が日本にやって来ている時代。当時の日本やアジアを巡る国際状況の中でこの遣欧使節がどのような位置付けだったのか、きちんと整理しないといけないと思ったのです。

 徳川家康の外交では、豊臣秀吉の朝鮮出兵で乱れた国際関係をどのように整えていくかというのが最大の課題だったわけです。そうなると、そもそもなぜ秀吉は朝鮮出兵を行ったのか? 秀吉の外交までさかのぼることになり、追跡対象がどんどん広がっていきました。歴史というのは連続性があるわけですから。

 国内外の史料をあさっていると、スペインはどうってことないとか、日本はおまえたち(スペイン)に取られるような国ではない、むしろ俺たちが明を支配してやるから見ていろとか、すごいけんまくの秀吉の書簡が残されているのです。こうした断片的に残された史料を整理しながら、当時の外交関係を探っていきました。