元少年Aによる書籍『絶歌』をめぐっては、ご存じのようにマスメディアでもネットでも激しい議論が繰り広げられている。個人ブログも含め、普段から情報発信している人のほとんどすべてが何らかの意見表明をしているのではないかと思われるくらい、数多くの人がさまざまな意見を述べていて、その意味では議論も出尽くした感がある。

 しかし、これだけ多くの論評が溢れているにもかかわらず、「社会貢献の視点」で語ったものはほとんどないように思える。というわけで今回は、この「絶歌問題」を社会貢献の視点から、2つのポイントについて論じてみたいと思う。

「表現の自由」とは何なのか?

 まずは、「表現の自由」に関してだ。

 『絶歌』出版に関しても、批判派と擁護派に分かれるが、擁護派の基本的な論点は「表現の自由」である。僕が見た限り、表現の自由の観点から「出版やむなし」と語るのは、マスメディアで発言したり原稿を書いたりして商売している言論人、ジャーナリストがほとんどのように思えるが、それはまあ職業上の、つまり商売上の都合というものがあるから心情的にはわかる。

 ただ、「表現の自由」があたかも至高の価値であるかのような視点での議論はどうかと思う。「表現の自由」を盾に取る人たちの根拠は言うまでもなく憲法第21条だ。その条文は、

1. 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2. 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 となっている。

「ほら、ちゃんと憲法にも“表現の自由”って書いてあるじゃん」というのが、擁護派の理論的根拠なのだが、しかし、言葉にはすべて「文脈」というものがある。この条文で言う「表現の自由」とは、犯罪被害者の名誉を汚し、尊厳を奪い、被害者家族に激しい怒りと大きな悲しみを与えるような表現も「保障」しているものなのか、大いに疑問だ。

 ここで言う「表現の自由」とは、もっと政治的な「表現の自由」ではないかと思う。つまり、時の権力者を批判するような本を書いたりテレビで意見しても自由ですよ、逮捕されて拷問されたりしませんよ、という意味だ。ちなみに、ご存じのように日本国憲法の原文は英語なので、第21条の英文も調べてみた。

Article 21. Freedom of assembly and association as well as speech, press and all other forms of expression are guaranteed.
No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of any means of communication be violated.