菅義偉Photo:YOSHIKAZU TSUNO/gettyimages

菅義偉氏が次期衆議院選挙に出馬せず、政界を引退することを表明した。安倍政権の官房長官として約8年、自身も首相として約1年国家の運営に携わり、官邸の中枢での決断を担ってきた菅氏が考える「リーダーの資質」とは何か。昨年12月に発売した『菅義偉 官邸の決断』から、その一部を抜粋して公開する。たたき上げとして知られる菅氏は、政治家生活の中さまざまな苦労を重ねてきた。その気迫は事務所スタッフにも浸透し、菅事務所は「政界一厳しい事務所」と呼ばれることもあるという。

※この記事は『菅義偉 官邸の決断』(菅義偉・ダイヤモンド社)から一部を抜粋・再編集したものです。

「政界一、厳しい」
菅事務所

 政治家を続ける上で、常に念頭に置いているのは、政治家を志した原点です。

 私は高校卒業後、雪深い秋田から単身上京して、町工場で働いた後に自分で学費を稼ぎながら、大学に進学しました。いちご農家の長男坊でしたから、いつかは地元に帰って家業を継がなければならないと頭のどこかで思いながら、しかし一方で「東京には何か面白いことがあるに違いない」と感じてもいたのです。

 一度は民間企業に就職しましたが、社会人生活を送る中で「社会を動かしているのは政治なのではないか」と感じ、政治の門をたたきました。

 小此木彦三郎先生の秘書として11年間、「政治とは何たるか、政治家の秘書はどうあるべきか」を厳しくたたき込まれました。そして1987年、横浜市議選に初めて立候補しました。38歳だった私にとっては文字通り「ゼロからの出発」でした。

 とにかく、まず名前と顔を覚えてもらおうと、数カ月にわたり、1日200軒ものお宅に丁寧にあいさつ回りをしました。わずかな時間も惜しいのでお昼はそばを大急ぎで手繰って済ませるのが常でしたが、目が回るほどの忙しさに、ある時は立ち寄ったそば屋さんでそばを食べながら気を失いかけたこともあります。

 毎日、朝から晩まで歩き続けるのでいつも靴がボロボロで、見かねた支援者の方から靴をプレゼントされたこともありました。

 こうした経験を秘書たちにも伝えているせいか、私の事務所は「政界一、厳しい」ことでも有名のようです。ある国会議員は事務所のスタッフがたるんでいると「菅事務所に出すぞ」と活を入れていた、とも聞きました。

 確かに私は仕事に関して厳しいと思います。若い秘書たちにも私の経験や学んだことを少しでも多く吸収して仕事に生かしてもらいたいため、徹底的に指導します。その結果、「菅事務所は厳しい」という評価も出てくるのでしょう。ただ、その一方で、一度事務所に入ったスタッフの定着率が高いのも、私の事務所の特徴です。新たなキャリアへの挑戦や地方議員への出馬のために事務所を巣立っていくスタッフももちろんいますし、そういう人には私もエールを送ってきましたが、多くのスタッフが不満で辞めることもなく、日々頑張ってくれています。

 これだけ「厳しい」事務所といわれながらスタッフが定着している一因は、私とスタッフがきちんとコミュニケーションを取れていて、スタッフが私の思いを理解してくれているからだと思っています。

 政治の世界に飛び込んでから40年以上、アクセルを踏みっ放しでここまでやってきました。

 私自身、政治家を目指した時点では「地盤・看板・カバン」のいずれもなく、文字通りゼロから出発しました。また自分の政治信条として「派閥の方針だから」というような説得には応じることなく、ある時期からは派閥には属さずにきました。政治家たるもの、組織やしがらみに流されるべきではないとも思ってきましたし、実際に採決時に党の方針に反対したこともあります。国民の代表として議員に選ばれている以上、プライドを持つべきだ、という思いからです。

 自分が納得できないことはやらない、とはっきり言ってきましたから、当然周囲からの反発もありました。しかしそうした中でも、政治家として正しいことをやっているか、自分で見極めて納得のゆく判断をするために、常日頃から、各界の専門家や現場の方々の話を幅広く聞くなどして、徹底的に勉強するように心掛けてきたことは、すでに述べた通りです。

 そうした経験の積み重ねが結果的には私自身の「型」となり、「強み」になったのだと思います。