聖堂には、光で浮かび上がる和紙で作られた十字架とキリスト像がある

齋藤哲郎(さいとう・てつろう)
学校法人カリタス学園理事長

1955年東京生まれ。東京大学文学部倫理学科卒。他の私立中高勤務後、85年からカリタス女子中学高等学校教諭となり、社会や宗教を担当。校舎建設には2003年から建設委員(副校長)として従事。09年校長、19年から現職。

 

私立校初の教科センター型校舎

神奈川県内には戦後設立されたミッションスクールがいくつかある。ラテン語で“愛”を意味するカリタスを校名としたカリタス女子もその一つ。被爆国の復興を手助けすべく、カナダ・ケベック州から3人の修道女が貨物船に乗って横浜港に着いたのが、1953(昭和28)年のことだった。それから7年、多摩川にも近い川崎市多摩区の住宅地に、幼稚園から短期大学までそろう学びの場が築かれた。短大は移転後、17年に閉学となったものの、幼稚園は22年4月に向けて新しい園舎を建設中で、モンテッソーリ教育をはじめ教育内容がさらに充実する。また、小学校も増改築が予定され、給食を導入する計画もある。

――新校舎を造った開成も青山学院中等部も、こちらに見学に来られたとうかがいました。何がきっかけで「教科センター方式」を採用することになったのでしょう。

齋藤 2006年春から新校舎を使い始めて今年で16年目になり、当時の建設委員の多くがすでに退職しておりますので、私から経緯をご説明いたします。

 直接のきっかけは阪神・淡路大震災(1995年)で、耐震診断の結果、建て替えることになりました。また、当時は創立40周年に向けて、教育理念を子どもたちに分かりやすくするための見直しにも取り組んでいましたので、校舎建設にあたっても「校舎でカリタスの教育を語る」ということを考えました。

 教科センター方式の導入を検討し始めたきっかけは、依頼した設計士の方から、計画指導者として長澤悟先生を紹介されたことです。長澤先生は教科教室型運営方式研究の第一人者で、当時は東洋大学の教授でいらっしゃいました。

[聞き手] 森上展安・森上教育研究所代表
1953年岡山生まれ。早稲田大学法学部卒。学習塾「ぶQ」の塾長を経て、1988年森上教育研究所を設立。40年にわたり中学受験を見つめてきた第一人者。父母向けセミナー「わが子が伸びる親の『技』研究会」を主宰している。
*森上教育研究所 「わが子が伸びる親の『技』研究会」では実力アップ「差がつく単問」集中講座 など受験生と保護者向けに教材動画を販売しています。詳しくはこちらをご参照ください。

――学校建築の分野では有名な方ですね。

齋藤 はい。その後、2002年にまとめた校舎建築のための『提言書』を基に『基本構想』を詰めていき、すでにこの方式を採用していた港区立六本木中学と都立晴海総合高校も見学して、最終的にこの方式が合うのではないかと、03年に採用することに決めました。全校生徒数が1000人を超えるような私立校での採用は、日本で最初だったと思います。

 ちなみに、後に鶴見大学附属や同志社が採用される際にも、本校に見学に来られました。

――どのような点にメリットを感じられたのですか。

齋藤 教科ごとに教室を移動しますので、その教科を学ぶという目的意識を持って自律的な行動が求められます。授業の前後のチャイムもなくしましたので、自分で時間管理をすることになります。個人ロッカーのあるホームベースと教室を行き来することで気持ちも切り替わり、生活にメリハリがつきます。

 この方式は絶えず生徒が移動しているので、生徒指導がしづらい点がデメリットの一つとして挙げられています。幸い本校では生活面が安定しているので導入できました。

 本校の生徒は謙虚で真面目なタイプが多いのですが、もっと大きく、根拠のない自信を持ってでも堂々と振る舞ってほしいなと、やや物足りない思いがありました。この方式の導入で変わることへの期待感は大きかったですし、実際、かなり変わったと思っています。

――行動が変わるのは大きなことですね。外部からの先入観かもしれませんが、カトリック校というと、落ち着いておっとりしている半面、堅苦しい面もあるのかなと。そうじゃないと言えるのはすごいことです。

齋藤 20年春からのコロナ禍で、この方式での運営が止まっているのは残念なことです。ただ、面白いことに、教科教室型なら普通教室と特別教室からなる一般的な学校にも戻せることが証明できたともいえます。その逆はできないわけですから。こうしたフレキシビリティーも一つのメリットなのかもしれません。

あらゆる教室に十字架があり、ちょっとした憩いのスペースにもマリア像や天使の像が置かれている。 いたる所から光が差し込み、明るい校内全体が祈りに包まれている雰囲気
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