いま、英語で“ダイアローグ”と呼ばれる「対話」がちょっとしたブームになっている。「対話」が持つ力が再認識されている、あるいは再構築されていると言った方がいいかもしれない。

 さまざまな社会問題の解決に対話の力を活用するというと、それは理想主義的すぎると感じる人も多いだろう。筆者自身も「念仏さえ唱えていれば、世界は平和になる」という考え方には与しない。しかし、解決すべき社会問題はますます複雑になっているし、個人の価値観や文化の問題も絡んでくると、力だけでは世界をより良き方向に変えることは不可能であることも事実だ。

 途上国に学校を作るというシンプルなアクションでさえ、対話が必要だ。先進国のNGOが学校を建て、子供たちが勉強できるようになるというのは、僕らの感覚からすれば良いことに違いないが、現地の農家の親にとっては、貴重な労働力を奪われることにもなる。「長期的に見れば、子どもに教育を与えた方が得ですよ」といくら言っても、例えば、アフリカに多く見られるように、数キロ離れた水くみ場まで毎日水を汲みに行くのは女の子の仕事といった地域では、教育を受けるメリットよりも、子どもの将来よりも、今日を生きるための水汲みという労働を優先させてしまうのは、仕方のないことだと言える。

 だから、まともな教育支援を行なっているNGOであれば、むやみやたらと学校を建てたりはしない。現地のコミュニティをきちんと巻き込む形で、学校を建てている。そうでなければ、たとえ建物はできたとしても、結局子どもは学校に通えないという状況になりかねないからだ。このように、教育支援という比較的対立を生まないようなアクションであっても、対話はやはり必要なのだ。

ビジネスは、利害関係の塊。
複雑な関係の中で求められる「対話の力」

 社会貢献への理解が深まるほどに、対話の力の重要性も理解できてくる。そしてこの、社会問題を解決するための対話力が、実はビジネスにも役立つこともわかってくる。なにしろ、企業活動というのは、複雑な利害関係のバランスの上に成り立っているからだ。

 企業はなるべく商品を高く売りたいが、顧客は安く買いたいと思っている。納入業者は原料や部品を高く売りたいが、企業は安く買いたい。従業員はなるべく高い給料が欲しいが、株主や顧客は従業員の給料が安い方が好都合だ。企業活動というのは、「利害対立の塊」であると言ってもいいかもしれない。

 さらに近年は、「企業の社会的責任」がますます広範囲に重くなっている。直接取引のない納入業者の下請けの工場の労働環境や、自社が直接買い付けているわけでもない原料の購入価格にまで責任を負わされる。フェアトレードと言えば聞こえはいいが、これを推し進めることは、それまでその地域を牛耳ってきた問屋の利権を侵害することにもつながる。

 その結果、フェアトレード団体が入り込んだ農村を、問屋が機関銃で襲撃したりするケースもあると聞く。あるフェアトレード団体では、これまでに40人以上の仲間を殺されたという。フェアトレードもキレイごとではない。まさに命がけの行動だ。