野田 実際の経済に関わっている人間にすると、経済学者の言っていることは、自分たちが実感している経済と多かれ少なかれズレている。つまり、日本でも、経済に関する限り“学者の空論”がいつもまずまかり通りがちだ。

野田一夫(のだ・かずお)日本総合研究所名誉会長。東京大学社会学科卒業。その後3年間、東京大学大学院特別研究生。立教大学助教授(この間に、2年間マサチューセッツ工科大学フェロー)を経て教授。1970年(財)日本総合研究所設立、初代所長。1985年(財)ニュービジネス協議会設立、初代理事長。1980年代末から21世紀初頭にかけ、多摩大学、県立宮城大学、事業構想大学院大学(東京)の設立に深く関わった後、それぞれ初代学長を歴任。ピーター・ドラッカーの経営論の日本への紹介者でもある。

 しかし、経済に対しては社会学、心理学、文化人類学などの学者の発言力が弱かったために、経済学者の発言権がまかり通り、結果としてマスコミも経済学者の所論を中心に社会を眺めるようになってしまった。
 しかも“近代経済学”の一つの特徴だが、やたらと数字を使うところに問題があるように僕には思える。しかも、数字を使いながら、不思議なことに、自然科学とまるきり違って、それをどうやって測定するのかについて経済学者はほとんど関心がない。誰がどう測定したのかよくわからない数字を前提として現実を語るが、僕は旧制高校まで理系だったから、それは非常におかしいと思いつづけてきた。「失業率はどうやって出てきた数値か」「物価指数はどうやって計算したのか」と、ことごとく疑問が湧くが、経済学をやっている人たちはそんなことはまったく気にしないようだ。

中原 たしかに、経済学者はやたらと数字を用いて理論武装しようとする傾向がありますね。その数字の前提となる計算や統計手法が正しいかどうかは、まず問題として俎上に乗ることもありません。先人の経済学者たちは自らが研究する学問について、非科学的だというコンプレックスを抱いていたのかもしれません。そのコンプレックスを解消するために、やたらと数字や複雑な数式を取り入れてきたのではないでしょうか。
 複雑な数式を取り入れて発展した金融工学などは、その典型例といえるでしょう。ノーベル経済学賞を受賞したフィッシャー・ブラックとマイロン・ショールズの「ブラック・ショールズ方程式」は、1998年のLTCMの破綻によって現実には机上の空論であることが明らかになりました。人間の欲望や不安心理が、方程式で計算した通りに制御できるわけがないのです。このように経済学では、物事の本質を踏み外した理論や方程式、時代の流れに適応できていない理論や法則が多いように思います。

ドラッカーの説は“理論”ではない

野田 観念論を前提として数字を使うのは、すごく危険だと思う。自然科学で使う数字は、どこの国で測っても、誰が測っても、条件が同じなら同じ数字が出てくる。ところが、経済学者の使う数字はいささか怪しい。測る人が違うと、数字が違ってくるという点では、新聞社の内閣支持率なんかとそう違いはなさそうだ。該して社会科学の分野では、“測定の方法”などはあまり気にしないようだ。ビジネスの世界では、数量化されたデータは、検討材料にすぎないのです。
 話は違うが、僕の友人のピーター・ドラッカーは冗談が好きで、「自分とエコノミストの意見が一致するのは、『ピーター・ドラッカーはエコノミストではない』ということだけだ」と経済学を皮肉りながら、「自分はコンサルタントだ。コンサルタントは抽象論では終われない。ありとあらゆる社会現象・自然現象を知っていなければ、経営者の悩みには答えられない。だから、強いて言えば、私はソーシャル・エコロジストかな……」と冗談を言ったことがあった。
 つまり、企業に関係のあるありとあらゆることを知っていないと、大企業のトップのコンサルタントなんかつとまりっこない、という誇りを込めてね……。

中原 ドラッカーの一連の考えは“理論”ではないですよね。日本のビジネス書ではドラッカーの関連本はとても人気があり、その関連本の中ではドラッカーの考えが無理に理論化されています。だから、多くの日本人はドラッカーの所説には理論的裏づけがあるように勘違いしている。