17歳の女子高生・児嶋アリサはアルバイトの帰り道、「哲学の道」で哲学者・ニーチェと出会って、哲学のことを考え始めます。
そしてゴールデンウィークの最終日、ニーチェは「お前を超人にするため」と言い出し、キルケゴールを紹介してくれます。
そのキルケゴールは、「人生は“leap of faith”、京都的にいうなれば“清水の舞台から飛び降りる”ことが大切なのです」と説くのでした。
ニーチェ、キルケゴール、サルトル、ショーペンハウアー、ハイデガー、ヤスパースなど、哲学の偉人たちがぞくぞくと現代的風貌となって京都に現れ、アリサに、“哲学する“とは何か、を教えていく感動の哲学エンタメ小説『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』。今回は、先読み版の第26回めです。
絶望していると自覚せずに絶望している
私は、キルケゴールのこの言葉に、一瞬胸が詰まる。
「絶望していると自覚せずに絶望している、ですか?」
「はい。本当は自分を見失っているのに、それに気づかず自分を騙している状態ですね。例えば、ポジティブなこと、明るいこと、楽しいことに目を向けよう!という風潮が世間にはありますよね。
けれども、どんな時もポジティブなこと、明るいこと、楽しいことに目を向けて、自分の気持ちに蓋をしていると、気づかないうちに、自分を見失ってしまう」
「というのは、どういうことでしょうか?」
「はい、ポジティブでいることはモチベーションも高く維持できていいことでしょう。けれども、ポジティブでいなければいけない!という気持ちが、強迫観念となってしまうと、それはもうポジティブではなくなる。ただ、自分の気持ちを無視しているだけにすぎないですからね。“ポジティブでいなければならない”という強迫観念にかられて、自分の気持ちに蓋をしているだけです。
また、自分は幸せだと信じこもうとすることも一緒。自分自身で、心に何かしらのわだかまりや不満を持っていたとしても、外的な要因を揃えて“自分は幸せなんだ”って思いこもうとするとかね。
外的な要因っていうのは、例えば、ブランド品で着飾ったり、人に自慢出来るハイクラスな生活をしたりだね。自分は、こんなブランド品が買えるほどお金があるから、人よりエリートだから、周囲より幸せなはずだって、自分に言い聞かせるようなね。
お金を持てば自由に選択出来る幅が増える。好きなところに住めて、好きなものを買う、ということに選択の幅も増える。
けれども、選択肢の幅が増えれば、自分の人生が満たされるかといえば、イコールではない。人間、なんでも買えるとなれば、いままで欲しかったものが急に色褪せて見えたり、どこにでも行けるとなれば、行くのが面倒くさくなったりするものだ。
そして、なんでも選択出来る豊かな条件が揃ったとしても、自分自身が本心から欲しているものがなければ、それは幸福とは言い難いだろうね」
「そっか、なんでも手に入るから、幸せ。とは限らないんですね」
「そうだね、いうなれば……『たとえ全世界を征服し、獲得したとしても、自分自身を見失ったならば、なんの意味があるというのだろうか』ってことかな」
「なるほど」
「幸せそうに見える人になる必要はない、ただ誠実に自分の人生と向き合うことが大切なんです。そして、自分が絶望していることを自覚せずに、自分を騙しつづける必要はない。そしてもうひとつ」
「もうひとつ?」
「人生に絶対はありませんから、見通しがたってから挑戦する、確実に大丈夫かどうか?
なんて気にしすぎる必要はありません。不安には底がありません。底のない不安は、覗きこめば覗きこむほど、考えれば考えるほど、より大きなものに思えてきます。
しかし、そのように不安を深掘りしすぎることは、底なしなのですから終わりがないのです。ようするに、考えすぎても無駄なのです。
『人生は後ろを向くことでしか理解できないが、前にしか進めない』。不安を目の前に臆病になることはもはや自己満足のようなものです。人生は“leap of faith”、京都的にいうなれば“清水の舞台から飛び降りる”ことが大切なのです」
キルケゴールはそう言うと、置きっぱなしであったこのお店の名物「琥珀流し」を口に運んだ。