薩長政権の「復古」は
キャッチフレーズにすぎない
いずれにしても、幕府を倒してこれに取って代わった薩長政権とは「復古」を唱え、それ故に「尊皇攘夷」を喚いて「恭順」を引き出して成立した、いわば「復古政権」である。
復古にしても尊皇攘夷にしても、その実は討幕戦を勝利するための“キャッチフレーズ”、よくいってもスローガンに過ぎなかった。
討幕という流れを奔流とするためには、簡素なスローガンが必要であったのだ。
ところが、派手なキャッチフレーズだけは存在するが、幕府から政権を奪ってどのような社会を構築するのかという点については、全く何も青写真をもっていなかったのである。
逆に、倒される幕府側には、ディテールはともかく方向観としては既に明確にもち合わせがあったことは確かなのだ。
例えば、イギリス型の議会制度構想がその一つといえるだろう。
慶応三(1867)年十月、徳川慶喜は大政奉還を行うに当たって、形式的ではあるがその旨を諸大名に諮問している。
京都二条城を訪れると、慶喜が上段に座し、約四十名の大名たちが居並ぶ観光用の部屋があり、もっともらしいガイドの説明を聞いた読者も多いことであろう。
西郷・大久保たちが偽の勅許を創って天皇の権威を利用して「討幕」をオーソライズしようとしたのに対して、慶喜が大政奉還という手に出た、先に述べたあの有名なシーンを再現したものである。