「恭順」とは

 この「恭順」とは、なかなかセンシティブな言葉であり、概念である。
 英国公使パークスなどは、これを「降伏」と同義に解釈していたフシがあるが、それを完璧な間違いであると一蹴することはできないが、二重丸の正解ともいい難いのだ。

『広辞苑』には「謹(つつし)んで従うこと。心から服従すること」とあるが、その通りであって、心底からの敬意、尊崇の念を伴った降伏でないと「恭順」とはいえないのである。

 江戸幕府の官学は、朱子学である。
 しかし、江戸の文化的成熟は、朱子学を否定する「古学」の普及を容認し、その中でも山崎闇斎(やまざきあんさい)や竹内式部の、天皇の神性を強調する天皇原理主義、勤皇原理主義が畿内から西日本を中心に普及し、これが幕末の尊皇テロリズムを生む素地となった。

 この思想の初期の担い手が神官たちであったことが、この思想を観念論、原理主義というレベルにとどめた要因ではないかと考えられる。

 一方、武家は行政の担い手であると同時に、高度に倫理を重視した士道という精神文化の具現者でもあった。

 流行りの勤皇思想は、武家にも影響を与えたが、それは必須の教養として定着したとみるべきであろう。

 尊皇原理主義が生んだテロリズムだけでは倒幕は成立せず、武家の教養としての尊皇意識が作用した「恭順」という概念こそがその成立を可能にしたとすれば、真(まこと)に皮肉な現象であったといわねばならない。