江戸という時代は、明治近代政権によって「全否定」された。
私たちは学校の教科書で、「明治の文明開化により日本の近代化が始まった」と教えられてきたが、はたして本当にそうなのか?
ベストセラー『明治維新という過ち』が話題の原田伊織氏は、これまで「明治維新とは民族としての過ちではなかったか」と問いかけてきた。
そして、今回さらに踏み込み、「2020年東京オリンピック以降のグランドデザインは江戸にある」と断言する。
『三流の維新 一流の江戸』が話題の著者に、「歴史を動かした西郷隆盛のひと言」について聞いた。
西郷隆盛は外で警備を担当
作家。クリエイティブ・プロデューサー。JADMA(日本通信販売協会)設立に参加したマーケティングの専門家でもある。株式会社Jプロジェクト代表取締役。1946(昭和21)年、京都生まれ。近江・浅井領内佐和山城下で幼少期を過ごし、彦根藩藩校弘道館の流れをくむ高校を経て大阪外国語大学卒。主な著書に『明治維新という過ち〈改訂増補版〉』『官賊と幕臣たち』『原田伊織の晴耕雨読な日々』『夏が逝く瞬間〈新装版〉』(以上、毎日ワンズ)、『大西郷という虚像』(悟空出版)など
現に、クーデター後の最初の“閣議”ともいうべきこの三職会議は、揉めに揉めた。この会議は、御所内の小御所(こごしょ)で開催されたところから「小御所会議」といわれる。
十五歳の明治天皇と皇族・公卿以外の大名の出席者は、元尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)、前越前福井藩主松平慶永(春嶽)、前土佐藩主山内容堂(豊信)、薩摩藩主島津茂久、安芸広島藩世子浅野茂勲(もちこと)の五名である。
画期的なことは、薩摩藩士大久保利通、土佐藩士後藤象二郎、安芸広島藩士辻将曹(しょうそう)たちが敷居際に陪席(ばいせき)を許されたことである。
この時、西郷は外で警備を担当していた。
小御所会議が揉めた図式の軸は、山内容堂と岩倉具視の対立である。山内容堂が「尊皇佐幕派」であることは、前に述べた。
岩倉具視は、薩摩長州の頭に立つ「討幕派」である。
こういう立場、スタンスの違いだけでなく、実はこの時点で「岩倉具視が孝明天皇を毒殺した」という噂が広く流布されていたのである。
この噂は、この会議の出席者は皆知っていたはずである。
山内容堂は、徳川慶喜の出席を拒んだ会議であることを責めた。
同時に、今回の会議に至る事態を、幼い天皇を担いだ、権力を私(わたくし)しようとする陰謀であると非難した。
この指摘は事実であって、まさに核心を衝(つ)いている。