人工知能(AI)が第三次ブームを迎え、さまざまな分野で私たちの生活を一変しようとしている。囲碁の世界でも人工知能が人に勝利し、完全なる自動運転の未来ももうそこまできている昨今。人工知能はどこまで進化しているのか。そして、私たちと同じように「心」を持ったり、哲学的なテーマに向き合うことはできるのか。
『いま世界の哲学者が考えていること』が大ヒット中の著者・岡本裕一朗氏が『人工知能は私たちを滅ぼすのか――計算機が神になる100年の物語』の著者・児玉哲彦氏を迎えて「人工知能×哲学」というテーマで語り尽くすスペシャル対談(後編)です。

加速度的進化の先に
シンギュラリティはある

岡本:児玉さんは著書『人工知能は私たちを滅ぼすのか』の中で、汎用性のある人工知能の存在やシンギュラリティについても、非常に明確に「間もなくやってくる」という肯定的な論調で書かれています。これは意外と日本ではめずらしいというか、かなりはっきりとした論調だと私は感じたんです。
 正直に言えば、私はカーツワイルのシンギュラリティに関する記述を出版されたころ読んだとき、最初は荒唐無稽な発想だという感覚を持ったんです。実際のところ、遠くない未来にシンギュラリティはやってくると、児玉さんはお考えなのですか?

児玉:本については、その可能性というか、イマジネーションの世界で語っているという部分があるのも事実です。(笑)だから、完全に私がそう思っているというのとはやや違うのですが、技術の進化のペースという観点で考えると、非常に加速度的に進化していて、今はその加速度的進化の真っ只中にいると思うんです。私自身がコンピュータのようなテクノロジーに関わって25年くらいになりますが、その四半世紀の間に起こる変化のペースは凄まじい。

岡本裕一朗(おかもと・ゆういちろう)
1954年、福岡に生まれる。九州大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。現在は玉川大学文学部教授。西洋の近現代思想を専門とするが、興味関心は幅広く、領域横断的な研究をしている。 著書に『フランス現代思想史―構造主義からデリダ以後へ』(中公新書)、『思考実験―世界と哲学をつなぐ75問』(ちくま新書)、『ネオ・プラグマティズムとは何か―ポスト分析哲学の新展開』『ヘーゲルと現代思想の臨界―ポストモダンのフクロウたち』『ポストモダンの思想的根拠―9・11と管理社会』などがある。

岡本:それはたしかにそうですよね。

児玉:その背景にはいろんなロジックがあって、ムーアの法則であったり、メトカーフの法則であったりするのですが、本来的に自らの進化のペースを加速するようなメカニズムが情報技術の世界には内包していると感じます。
 そして、そういう背景自体は、カーツワイルがシンギュラリティを語っている背景と非常に近いところがあります。それとやはりITの世界に身を置いていると、ITの進歩自体が次のイノベーションを誘発するようなところを持っていて、階層的にどんどん上のレイヤーでの構造ができていく。そういう実感はすごくあります。

岡本:そうした加速度的な進化の先に、シンギュラリティが起こる可能性は十分にあるということなんですね。

児玉:進化のペースという意味ではそうですね。

人間とAIは本質的に何が違うのか?

児玉:ただ、プロセッシングのパワーが上がることで、ドメイン・スペシフィックな問題を越えて、汎用的な人工知能がすぐにできるかと言えば、そうでもないとは思います。

岡本:それはどういった部分でですか?

児玉:実際、世の中には「評価関数が設定しやすい問題」と「そうでない問題」があるじゃいないですか。自動運転の「安全に、正しく、目的地に到着する」というのは非常に定義しやすい問題ですが、一方で、世の中にまったくない、おもしろいモノ、たとえば草間彌生さんみたいな作品を創造するというのは評価関数が設定しにくい。あるいは、組織をマネジメントする、思いやりを持って人と接するなどもすべて後者に含まれる問題ですよね。

岡本:たしかにそうですね。そもそも「思いやりをどう定義するのか」という時点で、非常に大きな問題ですから。

児玉:そういう「答えの出ないもの」、まさに哲学がその典型だと思いますけど、そういった問題を扱う場合、プロセッシングのパワーなど、いわゆる技術だけの問題ではないかなという印象はあります。「人工知能は哲学できるのか?」という命題に対して、技術的な進歩だけで応えられるとは思えませんから。

岡本:それは私も非常に興味深いところです。私もよく学生などに「哲学って何ですか?」って聞かれるんですが、その場合には「そもそもって問いかけることですよ」って答えるようにしているんです。もちろん、差し当たってということですが。ただし、何でもかんでも問いかけて考えればいい、ということではなく、「それが意味のある問いかどうか」を判断するという側面が哲学にはある。「果たして、それは意味ある問いなのか」というフレーム自体を、私たち自身が設定していくということですね。そういった自分でフレームを設定していくということ自体が、人工知能に可能なのか。あるいはフレームを変えて考えることができるのか。そこに私は大きな関心を持っています。

児玉:う~ん、それは非常に難しくて、おもしろい部分ですよね。

岡本:ちなみに児玉さんは「人間にあって、AIに欠けているもの」はどういったところだと考えているんですか?

児玉:その問題を考えるときに、まず思うのは、我々が人類発生の過程で得てきた「アプリオリに持っているフレーム」「アプリオリに持っている志向性」「生命として持っている志向性」というものが、AIがより知的な振る舞いをしていく上で、決定的に足りないのではないかと感じています。

岡本:もう少し説明すると、どういうことになりますか?

児玉:やはり我々の場合は、どちらかと言うと“カント的”というか、「人間は、人間としてのアプリオリな理性を持っているのではないか」と私は考えてしまうんです。

岡本:それはよくわかります。

児玉:でも、AIは“柔軟過ぎる”という部分があって、何でも等しく学んでしまう。典型的な例で言うと、マイクロソフトのツイッターのチャットボットで、19歳の女子大生チャットポットを作ったら、ネット上にいる悪い人たちがファシズムとか、いろいろ悪影響のあることを教え込んで、結果として人種差別主義者のAIになってしまったという、ひどい例があるんですよ(笑)

岡本:それはひどい(笑)