今回も、前回に引き続き、交渉に関連する落とし穴について紹介していく。テーマは、交渉の現場でも多用されている「アンカリング」だ。アンカリングという言葉は聞き慣れない人もいるかもしれない。しかし、次に挙げる事例を見てもらえば、ビジネスシーンでよくあるケースだと理解してもらえるはずだ。
【失敗例】ITコンサル会社 荒川人事部長のケース
「最初の提示に引っ張られすぎた」
荒川氏は中堅ITコンサルティング会社の千住ソリューションで人事部長を務めている。業界の特性上、どうしても従業員は多忙となってしまうのだが、その結果、体を壊して辞めてしまう人も少なくない。あるいはより良い条件を求めて転職するなど、人材の流動性も非常に高い。
そうした中で、どれだけ従業員に魅力的な職場環境を提供するかが、荒川氏の目下最大の懸案事項である。同時に、「人」こそが競争力の源泉となるビジネスゆえ、いかに優秀な人材を獲得するかも、荒川氏に課せられた重大な課題である。
もともと千住ソリューションは新卒採用を重視していたのだが、最近は中途採用にも力を入れている。人事の仕事が長かった荒川氏は、従業員の悩みを聞いたり、部下に懇切な指導をしたりするなどは得意としていたが、正直、交渉ごとはそれほど得意ではない。千住ソリューションには組合がなく、人事担当者としてタフな組合交渉に臨む必要がなかったのもその一因であった。
今日、荒川氏は、まさに中途採用の面接に臨んでいた。候補者は尾久氏という男性で、これまでに数社のIT企業でプロジェクトリーダーを務めている。プロジェクトの切り盛りだけではなく、コンサルティング営業もこなし、売上げの数字も上げられるとあって、人材市場における価値は高い。
今回、縁あって千住ソリューションへの転職がほぼ確定し、あとは条件を詰めるだけである。細かな条件ももちろんあったが、最大の争点は、仕事内容と年俸である。仕事内容はほぼ両者合意に至っており、残された最大の争点はズバリ「年俸」を残すだけであった。
荒川氏には社長から、「高くても1300万円、できれば1100万円程度で」との枠をはめられている。今から他社に移る可能性は現実的にはほとんどない状況ではあったが、やはり気持ちよく働いてほしいからあまり値切りたくはない。かといって、突出した先例を作りたくもないため、あまり高額にはしたくない。荒川氏は、何とか落とし所として1150万円程度にしたいと考えていた。
そうした心積もりを心の奥に押し込め、ゆっくりと切り出した。
「ところで、尾久君はどのくらいの年俸を希望する?」
尾久氏はさらっと言った。
「そうですね。最終的には御社の常識からあまりに離れた額は無理だと思いますが、自分の市場価値にはそれなりに自負もありますので、1500万円を希望します」
「(1500万円!)」荒川氏は驚いた。「それは無理だよ」という言葉が喉元まで上がってくるのをぐっとこらえ、冷静に切り返した。