2014年にドラコ・ロサのアルバム「VIDA」でグラミー賞の「ベスト・ラテン・ポップ・アルバム部門」作品賞を受賞したレコーディングエンジニア・プロデューサー、SADAHARU YAGI氏のインタビュー第2回。ヤギ氏はアメリカでの下積み時代、英語にも不慣れで、文化も違う異国で苦難を強いられた。その中で自分のアイデンティティを見失うことなく日々前進できたのは、新渡戸稲造の『武士道』の影響があったからだという。ヤギ氏が『武士道』から受け取った、日本人としての生き方の「本質」とは?(聞き手/ダイヤモンド社 田中泰、構成/前田浩弥)

イーグルスのジョー・ウォルシュ(右)との音楽制作風景

「誠実さ」こそがチャンスをつかむ道

――アメリカでの下積み時代の話を教えてください。九州大学を卒業して、その年の8月にアメリカに渡ったんですよね。

ヤギさん(以下、ヤギ) はい。アメリカに渡って、まずカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のエクステンションコースに入りました。大学がハリウッドの最前線で働いている人を講師として呼んで、音楽の勉強だけをひたすら学ぶコースです。ここで1年3ヵ月くらい学びました。

――九州大学での学びと、UCLAでの学びは、どう違ったんですか?

ヤギ 九州大学では、「音響の基礎をしっかり学ぶ」という、いわば技術的な足元を固める学びでした。一方、UCLAでは「ハリウッドで実際に音楽をつくる方法論」を教えていただきました。

 UCLAでの学びはわくわくしましたね。何しろ先生たちの中には、グラミー賞とった方が何人もいましたからね。頭の中に思い描いていた「夢」の解像度がどんどん高まり、現実に近づいていく感覚がありました。

――夢があるなら、その夢を叶えた人に会いにいけ、と言いますね。まさに、それですね。

ヤギ そうかもしれません。グラミー賞をとったすごい人だって、自分と同じ人間なんだってわかりますからね。これは大きいですよね。ただ、……僕には致命的な弱点があったんです。

――致命的な弱点?

ヤギ 英語の会話が全然できなかったことです(笑)。

――ああ(笑)。

ヤギ 一応、アメリカに渡る前にTOEFLで550点をクリアするほどには英語を詰め込んでいったんですけど、日常会話はまったくついていけませんでした。だからアメリカに行ってからも、毎日、英語を必死に勉強しましたよ。それでも、UCLAを卒業する時点でもまだ、アメリカ人とスムーズに会話ができるレベルの英語力はありませんでした。

――そんな状態で卒業してしまって、アメリカでの最初のお仕事はどうやってつかんだんですか?

ヤギ まずはスタジオにインターンを申し込むところから始めました。

 インターンとは、早い話が「使いっ走り」です。トイレや持ち場の掃除・窓ふきなど、「丁稚奉公」として現場に潜り込むことが、レコーディングエンジニアの第一歩なんです。

 まぁ、“奴隷”のように使われるポジションですが、「音楽業界で働く」という夢のためには全員が通る道ですから、競争率は当然、高い。そんな中で、「英語のレベルが低いこと」はやっぱり不利ですよね。だからいろんなスタジオにインターンを申し込んでもなしのつぶてで、返事があったのはたった1つのスタジオでした。

――1ヵ所だけですか……。

ヤギ はい。何ヵ所申し込んだのか数えられないくらい申し込んで、返事は1ヵ所。そのスタジオに運よく「面接に来い」と呼んでもらえて、採用してもらいました。

――インターンとして働くことになって、何が一番大変でしたか?