考えること、考え続けること

 日々の仕事に真剣に取り組んでいる人間であればあるほど、葛藤も強いのだと思う。まして、建物や街を創り上げる仕事に直接携っている人々にとって、現地の光景から大変な衝撃を受けただろうことは想像するに難くない。

 「自分たちがこれまでやってきたことは何だったのか。こういうときに役に立たないことというのは意味がないことだったのではないか」という自問は、業種を超えて行われているように思う。

 もちろん、出版業界でもその思いが強い人はいる。「自分は無事なのだから、活発な経済活動に貢献することが一番の復興支援だ」という大義名分はよくわかっている。それでも、割り切れない。自分がしていることと被災地との距離感をさらに感じることになってしまう。そんな感情が払拭できないという人も身近にいる。

 僕は、何が正しいかはわからない。目の前にあるやるべきことは真剣に取り組まなければいけないと思っているし、その一方で震災の記憶が薄れていく世界に違和感もある。

 ただ、ひとつだけ思うのは「そういう相反する感情について考えること」に意味があるんじゃないか、ということだ。考えるという行為は具体的な生産物を生むわけでもないし、何もしていないのと同じかもしれない。ただ、考え続けて、迷ったり振り返ったりすることを続けることが、今後自分が作り出していく何かに、僅かかもしれないが反映されるのではないかと思う。そうであってほしいと思う。以前・以後で語られる無視できない価値観の変化のなかで、自分が作りたいものを見つけ出す方法だと思っている。たとえ、ぼくにできることがミジンコの繊毛くらい矮小なことであっても。

 建築の技術面に関しては全く理解できなかった。が、考えを巡らせる非常に有用な機会になった。