まず“手づくりへのこだわり”についてだが、萬乗醸造には、現在約30人の社員がおり、全員が蔵人として酒造りに携わる。営業部隊はおらず、広告宣伝費もない。獺祭の旭酒造のように、機械を使った温度管理や熟成の測定など、自動化を進める酒蔵もあるが、これらとは一線を画す。そのこだわりは、原料である米作りへのチャレンジから、お酒の名付けや瓶のラベルの制作まで一貫して自社で行う姿勢に現れている。自社の日本酒の物語を、お客さんに最も上手く伝えられるのは自分たちだ、という信念に基づいているからだ。

 一方で、独自の経営感覚は、海外進出先に「フランス」を選んだことにも表れている。00年代前半に、国内は焼酎ブームが起こり日本酒の影が薄くなった。その時、大手や同業他社はアルコール消費の市場が巨大なアメリカへの進出を優先。だが久野社長は、フランスという美食の国で認められてこそ、日本酒の復活があると判断。現地で自らレストランに飛び込み営業を重ねたのだ。

 社長の人目を引く風体や話題性から、ついブランディングやマーケティング戦略を第一にしていると誤解しそうになるが、そうではない。あくまで造り手として酒造りにこだわった上で、明確な戦略を打ち出している。

 では、そうした“手づくりへのこだわり”と“経営感覚”はどのように生み出されたのか。

萬乗醸造15代目の久野九平治社長

美味しくなくても売れた時代に
転機となった営業マンの“一言”

『醸し人九平次』が生まれる前、26歳で家業に戻った久野社長は、営業からキャリアをスタートした。自社の酒を売ろうと意気込んでいたが、当時の日本酒は「あまりおいしくなかった」。そんな時に会合で、あるビールメーカーの営業マンに出会ったのが、転機になった。

 営業マンにその会社の主力商品である「ラガー」の意味を聞くと、「知らねえよ。営業して10年だけどお兄ちゃんに聞かれたのが初めてだ。誰一人、そんなことは聞いてこなかった」と笑いつつ、「名前の由来や中身よりもマーケティングやCMにこだわった方がいい」と言われたのだ。 

 その時、こうはなりたくないと感じたという。

「当時は、モノの本質が分からなくてもお金が回る、そういう時代だった。ただ、自分も教科書程度の知識はあったけれど、日本酒について自信を持って語れるわけではなかった」

 久野社長はその後、醸造の現場に入り、ひたすら中身にこだわった酒造りに励む。そして97年に吟醸酒である『醸し人九平次』を世に出した。米や水にこだわり、同級生の杜氏である佐藤彰洋さんとともに3年の歳月をかけて生み出した渾身の1本だった。出来上がりは「上品な香りと酸味の利いた風味がたまらない」と酒好きの間で話題になり、注文が相次いだ。これに自信を付け、2002年に吟醸酒のみの製造に切り替え、現在では『醸し人九平次』ブランドだけを造っている。