産業再生機構で支援した企業にカネボウがあった。

 同社は、かつて日本の民間企業の中でも最も大きい会社であった。しかし、経営戦略の合理から見ると、もはや赤字部門となった「繊維事業」を切り離すことが何よりも必要であった。

 ここで問題だったのが、カネボウにとって繊維事業が「祖業」であったということである。カネボウの経営トップは、繊維事業を自ら祖先の「祖」という字を当て「祖業」と称し、先祖代々の家業のように位置づけていたのだ。

 繊維事業からの撤退は、他の事業に経営資源を集中させることである。合理で考えれば極めて真っ当な選択だが、かつてこの繊維部門で育ち「愛着」を抱く多くのカネボウ社員たちにとっても、シビアな判断である。つまり「繊維事業」からの撤退とはすなわち、繊維部門の社員に「すみません、ここから半分の人たちはムラから出ていってください」というに等しいのだ。

 この判断が、同じ釜の飯を食ってきた、いわば身内同然の社員に対してできるかどうか? これは情理を伴う人間にとって、相当ハードルが高い。

修羅場に対する強さに欠ける
現代の経営者

 日本の企業風土は、良くも悪くも「ムラ社会」だ。しかし当然ながら企業経営は、収支勘定がすべてである。合わないことを続けていたら無理が出る。それを詳らかにすれば、銀行から資金を引き上げられたり、株主から圧力がかけられたりすることになりかねない。

 ここでムラ社会である共同体の論理では、ムラを守る内向きの論理が働き、行き着くところまで行くと、粉飾といったごまかしまで組織的に生まれてくるのである。