第10回目、最終回の今回は、海外で孤軍奮闘することになった経験をもとに、英語へ取り組んだ外資系トップの言葉をご紹介する。英語を使うことになるとは予想もしていなかったというパルファン・クリスチャン・ディオール・ジャポンの小出寛子氏にご登場いただく。
パルファン・クリスチャン・ディオール・ジャポンの小出寛子氏も、実は思いもよらない形で英語を使わなければいけない世界に放り込まれたという一人だった。フレグランス、メイクアップ、スキンケア商品を中心に全国130店舗を展開、550人の組織を率いているのが、小出氏。
外資の世界で華やかなキャリアを築き上げ、今や経営トップを任せられている東京大学出身の才媛である。ところが、実は当初、自分が外資でキャリアを積み上げていくことになるなどとは、思ってもみなかったのだという。
突然のアメリカ行き
どうせなら勉強のチャンスにしよう
1980年に卒業。出版社に勤務していた4年目に結婚したが、転機となったのは、ご主人がアメリカに赴任することになってしまったこと。
「今と違って4年生大学卒の女性の就職は機会が限られていたんです。一般企業ではほとんど採用はありませんでした。官僚になるか、大学の先生になるか、弁護士や医者か。あとは放送局や新聞社などのマスコミくらい」
そんな中で、仕事を辞めてアメリカに行く。小出氏は悩んだという。
「もう仕事に就くことはできなくなるんじゃないかと。でも、一度退職した会社に戻るなんてことはとてもできない時代。ただ、だからといって、日本はもちろん、アメリカで専業主婦というのもいやだなと思って。知らない土地で自分の所属する場所がないというのは、すごく恐怖だったんです」
どうせ行くなら、英語も含めて何か勉強できるチャンスにしてしまおう、と大学院に入ることにした。そうすれば、帰国後にマスコミの仕事に戻るチャンスがあるかもしれない、と。ところが、思ってもみなかった英語の洗礼を受ける。
「受験で英語は勉強していましたし、大学時代に授業で生の英語に触れる機会も少しはありました。聞いたり話したりには全く自信はなかったものの、まあ何とかなるだろうと思っていたんです。でも、英語を使って誰かとコミュニケーションする機会は、本当の意味では経験がなかったんですよね。それでいきなり衝撃を受けたのは、入国審査でした。担当官に何を言われているのか、まったくわからなかった」