判決文のうち、給付型奨学金を収入認定することそのものの違法性を判断した部分。「公務員に与えられた裁量権を逸脱」としている
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 判決文を読んでいた私は、子どもから機会や希望を奪う貧困に対する怒りや、「貧困という日本社会の不公正を放置させないことが司法の役割」という意識が行間から浮かび上がってくるような気がしたほどだ。

 しかし、当のアスカさんは手放しで喜んでいるわけではない。

「ほっとして、『疲れたなあ』と。とりあえず一安心というか……。一応、裁判には勝ちましたけど、まだこれで終わりではありませんし……。苦しかった時期は消えませんし、『もっと早く、決着がついていれば』と思うことも多いです」と語る。

 失われた時間や機会は戻らない。目の前には、「福島市が控訴するかもしれない」という懸念もある。控訴期限の1月30日までは、その懸念から自由になれないだろう。

努力の成果も希望も喜びも
根こそぎ奪われた母子の心情

 自分の努力によって手にしたはずの給付型奨学金を奪われ、結果として高校生活も将来への夢も奪われてしまったアスカさんは、勝訴した現在、一連の経緯を振り返って語る。

「今思うと、『あのときに奨学金があれば』と思うことがやはり多いです。『最初から収入認定されていなければ、今、違った生活ができていたかもしれない』とも思います」

 アスカさんは、訴訟の原告になりたかったわけではなく、建築家になりたかったのだ。

「進学って、希望を持ってするものだと思うんです。奨学金が受けられるとわかったとき、私は嬉しかったし、『高校で、いろんなものに使えるなあ』と思っていました。それが手に入らなくなって、本当に、急に希望がなくなったといいますか……『せっかく努力したというのに』という気持ちが強くて」(アスカさん)

 この訴訟での福島市側の主張は、ほぼ一貫して「収入認定はしたけれど、後で使えるようにしたから、いいじゃないか」という内容に、「ミサトさんが住まいに最も近いスーパーで買い物をしない」といった事柄に対する非難めいた発言が入り交じったものだ。福島市は「母子の自助努力が足りないんです」と印象づけたいのかもしれないが、私には“イチャモン”にしか見えなかった。経緯に関する陳述や答弁は、内容が一貫せず、生活保護制度そのものへの理解不足も目立つ。

 まったく笑い事ではないのだが、私は裁判記録を読みながら爆笑したことが何回もある。ちなみに、福島市が「ミサトさんの住まいに最も近い」としたスーパーは、「スーパー」を名乗っているが小さな「よろず屋」で、品揃えも品質も良くない上に価格も高いそうだ。