【必読ポイント!】
◆夫婦で一番売るトラック売店
◇思わず口にした「100円」

 矢野は移動販売の商売で独立し、昭和47年に「矢野商店」を創業した。けれど矢野は弱気で、「この商売は、いずれ潰れる」と思っていた。会社の規模を大きくすることには興味を持たず、「夫婦で一番売るトラック売店」という身近な目標を立てた。自分の親にこれ以上心配をかけたくなかったので、粗利を追求するのでなく、原価が高くて客に喜んでもらえる商品をコツコツ売る道を選んだ。

 矢野は、2トントラックに商品を積んで移動し、ベニヤ板に商品を並べて売っていた。ある日のこと、天気のせいで予定していた売り場に少し遅く着くことになった。そこへは、自作のチラシの効果あってか、すでに客がつめかけていた。開店準備が間に合わず、「これ、なんぼ?」と聞いた客たちに対して「100円でええ」と答えた。大量の商品に値段をつける時間がなかったので、どれもこれも100円にしてしまった。100円均一の商売が生まれた瞬間だった。

 商売を続ける中で一番こたえたのが、「安物買いの銭失い」という客の言葉だった。悔しさに奮起した矢野は、利益を度外視して原価を思いきり上げた。原価98円のものまで100円で売った。とたんに客の目つきが変わり、矢野商店は同業者の中で一番売れる店にまで成長した。

 ところが、従業員も徐々に増え、大きくなってきた矢野の商売を、突然の火事が襲う。自宅兼事務所が燃え、トラックから商品から何もかもが燃えてしまったのだ。これにはさすがの矢野も寝込んでしまった。

 だが振り返ってみれば、これこそ「それまでの悪縁を焼き捨てる火事」だった。やけくそで復活し、広島の大手スーパー・イズミへ店頭販売の話を持ち込んだところ、なんと3日間で330万円を売り上げた。その後のスーパー進出もうまくいき、原価の高い商品をそろえた矢野商店は客を惹きつけ、競合他社に競り勝った。ついに東京にも進出し、イトーヨーカドーでの店頭販売も大成功を収めた。

◇株式会社大創産業

 昭和52年、矢野商店は「株式会社大創産業」と名を改め、法人化した。「大創」は、占い師に「名前だけでも一回り大きくしたい」と相談して決めた。

 このころの社員数は28人くらい、商品数も300~500と現在とは比べ物にならないくらい少なかった。客層は主婦が主流で、客単価は1000円ほど。社員はトラックに商品を積んで、スーパーに繰り出して商品を販売していた。矢野は「ダイソーは潰れる、潰れる」と言い続けていたものの、社員は奮起した。潰れていったのはライバル企業のほうだった。

 大創産業は次々と事業所をつくって順調だったが、お人好しの矢野は裏切りにあうことも多かった。経歴の立派な人間を採用すると、すぐに専務や部長に取り立てた。だが、営業部長には売上金を持ち逃げされ、抜擢した人間の何人かは部下を引き連れて独立し、同じ商売を立ち上げた。前者の営業部長は、有名な詐欺師だったことを警察から教えられた。疲れ果てた矢野は、妻の勝代を専務に据えた。すると、勝代は持ち前の商才を発揮し、会社は上手く回り始めた。

 昭和60年代に入ったころから、「100円SHOPダイソー」の展開を始めた。時代の流れとともに、事業形態にも変化が訪れた。スーパーなどの軒先に出店する移動販売から、店内の催事場での商売に変わっていったのだ。人通りの多いところでないと売れない、と、矢野は初め考えていたが、ダイソーの商品には客を呼び寄せる力があった。矢野は、よい商品を置けば固定でも売れるのではという手ごたえを得るとともに、「お客様第一主義」の大切さを改めて感じたという。