社会人になっても、よく「勉強が必要だ」と上司や先輩から言われたり、「勉強してます」という同僚や後輩の言葉を聞くことがあるだろう。しかしその「勉強」とは、単に仕事上の要領を覚えることだったり、お稽古ごと程度の語学スクール通い、または単なる読書であったりする。どうも、勉強という言葉が安っぽい。
本来、勉強というのは、よほどの才能がなければ独学には限りがあるし、まともな先生につかなければ伸びはない。社会人になると、勉強環境は非常に悪くなるようであるが、社会人こそ、まともな学校で勉強する機会が望ましい。そういう意味でも、大学院というのは実効性の高い存在である。
主に文系についての話ではあるが、大学院の修士課程の修了要件単位は、おおむね30単位プラスアルファくらいである。そのうち、修士論文やファイナルペーパーがおよそ8単位くらいで、この分は「論文指導」の別枠(講義というよりは、自宅での作業のほうが遥かに多く、指導は「途中経過報告とアドバイス」のメソッドに近い)だ。
いわゆる講義は22単位+αくらいということになる。大卒者のみなさんは、卒業までに120単位以上は修得したはずだ。大学院でも単位の計算方法は変わらないので、学部の1年分よりずいぶんと少ない。それを、普通の2年制大学院の修士課程ならば、1年間に10単位ちょっと修得すればいいことになる。プラグマティックに言えば、この分をこなせば修士号が手に入るのである。
社会人にはオススメの
“通信制”の大学院
楽なようで、社会人には微妙に重いこの負担を解消する手段のひとつが、「通信制大学院」である。社会人が大学院に進むことを考える上で、クリアすべき問題はまず時間的な制約、そして地理的な制約の克服ということになるだろう。その点から考えた場合、通信制大学院というシステムは十分以上に検討に値する。
通信制の大学院はまだ歴史が浅いために、その立ち位置が微妙に誤解されているフシがある。すなわち、「通信制の学部」とイメージの混同をされやすい。とはいえ、実態は全く違う。なんらかの事情で通学できない人間を一斉に救いとる「学部の通信教育」に対して、大学院の通信制はかなり選抜的である。入学試験には面接があり、語学試験があることも覚悟しておかなければならない。
ある意味、通学の大学院よりも大学と大学院の違いが鮮明になっているというといってもいいだろうか。大学は教育機関の最上階に位置する高等教育機関である。いっぽう大学院修士課程は、研究機関の入り口でもあるのだ。