ここなら、どなたを誘っても文句が出ないでしょう。時代の先端を走っている、「特上・手打ち蕎麦屋」をたっぷりとお見せします。

 難解な現代の空気を読みきった亭主たちのストラテジーと店づくり、あなたがまだ体験したことのない蕎麦と蕎麦料理。人を呼ぶ、そのオーラの暖簾をくぐってみませんか。

 “人を見る”――それが自分をも大きく動かす。「大川や」の幸運の鍵はそこに隠されていました。

 誰もが客入りの心配をし、反対したその場所。しかしいまでは、忽然とスポットライトが当たっています。暖簾の奥から立ち上る穏やかな“オーラ”に、客は今日も吸い寄せられてしまうのです。

(1)店のオーラ:
蕎麦の女神が肩に舞い降りた日

 ちょうど7年ほど前だったでしょうか。蕎麦屋を開業したいと思っていた頃、参考になる店だとある人から聞き、僕は、「大川や」の暖簾をくぐったのです。

 店の中をふっと見ると、夜の開店間際にもかかわらず、テーブルの全てに予約の木札が並んでいました。その木札に人気蕎麦屋の輝きを感じ、足がすくんだことを思い出します。

粋な「暖簾」が目印。夜はライトアップされ、さらに良い雰囲気に。店の中も、落ち着いた空間。

 「一瞬にして蕎麦屋になろうと思った」

 そう店主の大川さんが語り始めました。東京に生まれ、以前はプログラマーの勤め人でした。実家が煎餅屋さんだったこともあり、“商いの血”がいつも何かに向かって騒いでいたといいます。イタリアンかフレンチか、ラーメン屋か、食べ物商売にあこがれていたというのです。

 そんな折、親の実家の徳島に里帰りした大川さんは、「手打ちうどん」の美味しさに心を打たれました。「東京なら蕎麦屋だろう」――うどんを食べていたのに、それは突然、根拠もなく閃きました。22歳の青年にいきなり、“天啓”のようなものが落ちてきたようで、そのときは体が震えたそうです。

 新橋に「本陣房」という老舗手打ち蕎麦屋があります。今では都内に10店舗を持ち、手打ち蕎麦屋経営の天才といわれている方が興したお店です。その本陣房に2店ほど蕎麦屋見習いを経験し、24歳で修業に入りました。そして6年後、大川さんは独立して、自分の夢に向かいました。本陣房は、いわゆる背広組を相手客に商売を広げていきましたが、彼が開いた店は、本陣房とは対極にある客層を開拓しようとしました。

 「根が天邪鬼なんです・・・。同じような店を興したくなかった」笑って答えます。

 靖国通りの裏手の奥まった通り、知り合いの誰もが反対した寂しい場所に店を開きました。しかし、皆の心配をよそに、一月を経ず、評判の店になりました。「幸運に恵まれただけ」と彼は述懐します。

 だが、ラッキーだけではない事を、この店に数年通う僕は分かります。それは、客への機微と観察力です。蕎麦屋用語でいうなら、見計らい。一種のパフォーマンスと言い換えてもいいでしょう。