40年前、名門「更科」の大看板を背負って手打ち蕎麦の復活の旗を立てました。
布恒の辛汁か、辛汁の布恒か、蕎麦好きはそれだけで店内に引き込まれます。つゆの漆黒のオーラは蕎麦料理に深みを与えます。
店のオーラ
ヘルメットを捨て蕎麦屋を継ぐ
戦後、手打ち蕎麦は氷河期に入りました。
江戸時代の全盛期には市中に蕎麦屋が3763店[出典・守貞漫稿]もあり、明治から昭和の初期には「更科」「藪」「砂場」「長寿庵」が出揃って、繁栄を迎えていました。しかし、戦後は物資不足もあって細々としたものになっていきます。
昭和30年代には経済の発展と共に蕎麦屋も復活を遂げていきます。
老舗では大量の客を迎えるために機械打ちの導入を図って、手打ち蕎麦はほんの一部のものになっていきました。
いわゆる町蕎麦屋も製粉所から生蕎麦を入れて、人々の食生活を支えていきます。
昭和40年代の中頃になると、眠っていた手打ちのマグマが噴出し始めます。
が、草創期には大変な困難が付きまとうものです。
「どこの農家に行っても蕎麦作りは後回しだったんです。ひどい時代だった」
そう語るのは、「布恒更科」二代目の伊島節さんです。
蕎麦は雑穀の最低レベルの扱いで、生産しても価格が低いので、米作や豆類を優先して、よほどでない限り蕎麦の種は撒かなかったものでした。
種を撒いて実がなっても刈り取りさえしない農家もあったそうです。
「蕎麦を少しでも回して欲しくて、農協の人たちにお願いしたものです」と女将が振り返ります。亭主と一緒に北海道をくまなく回った苦労を思い出したようでした。
屋号は「布恒」、更科は江戸時代から続く“大看板”です。
江戸後期に天才・布屋太兵衛が「更科」の看板を上げ、その直系の1人が明治35年に日本橋に店を開き、大正15年に有楽町に移転し「有楽町更科」が誕生します。
その「有楽町更科」の次男坊が、ここ大井に初代「布恒更科」を興します。昭和32年のことでした。
「親父は遊び人でね、当時はこの店は置屋で母親が芸妓でしたから、親父が転がり込んだんだ」
初代のことを楽しそうに伊島さんが話してくれます。