蕎麦屋巡りを始めた人は、ある日、ふと遠い江戸に思いを馳せます。
作家・池波正太郎が愛したという蕎麦屋を追い、オーラを背負った亭主たちの歴史を辿ります。蕎麦の道は余りにも深くて、古の昔から明日へと続きます。
池波正太郎が描いた
蕎麦が映し出す江戸の文化
“蕎麦前なくして蕎麦屋なし”
これは作家の故・池波正太郎氏が蕎麦屋酒の楽しみを語ったものです。
蕎麦屋で呑む酒を蕎麦前といい、文字通り蕎麦が来る前に肴をつついて酒を一、二本飲むことです。
江戸っ子は気が短いが、酒はちびり、ちびりとやるのが定法で、仕舞いに蕎麦をさっと手繰るのが粋だったわけです。
「お声がかりでよろしいでしょうか」蕎麦を出すタイミングを花番さん(※1)がそう聞きます。
「いや、見計らいで」と粋に客は花番さんに任せます。
氏の蕎麦屋好きはつとに知られていて、神田「まつや」や信州の上田「刀屋」がよく話題に上ります。
その中に、好きで何年も通って隠していた店がありました。
猿楽町の「松翁」です。定宿の御茶ノ水「山の上ホテル」から店にボーイさんを連れて徹夜明けの蕎麦料理を楽しんでいました。(連載・猿楽町「松翁」参照)
氏はそれを密かな楽しみにしたくて、「松翁」の名をしばらく明かさなかったので、蕎麦マニアは神保町近辺を随分と探し回ったようです。
「とかく蕎麦通はもり蕎麦しか食べないものといわれたが、先生は温かい蕎麦もよく食べてくれました」
「松翁」の亭主がこう述べています。
江戸時代は冷たいもり蕎麦もそうですが、かけ蕎麦や種物(※2)蕎麦もよく食べたようです。
江戸初期は饂飩が常食でしたから、温蕎麦も好んで食べていたはずです。
寛延4年(1751年)に日新舎友蕎子の「蕎麦全書」に、かけ蕎麦は江戸新材木町の「信濃屋」が始めたとしてあり、最初は単に汁をぶっかけたものだったと示してあります。
このぶっかけにこそ、巷間、蕎麦話でいわれる、”蕎麦湯の始まり”があるのではないかと僕は考えています。
蕎麦に含まれるルチンやビタミン類が湯に溶けやすく、摂取が体にいいのは現代でこそ知れ渡っていますが、なぜ飲み始めたかの裏づけが蕎麦屋酒でもよく話題になります。
当時は飲料水が貴重なもので、蕎麦を茹でた湯もそうだったでしょう。蕎麦湯は美味いものだと亭主たちは知っていて、客にもすすめたはずです。
江戸はリサイクルとエコの文化の時代でした。使い古しの浴衣→手ぬぐい→下駄の鼻緒→雑巾→薪の火種と使い切りました。ゴミがゼロ、捨てるものを無くするというのが生活習慣でした。