ある日、ふと入った蕎麦屋の手打ち蕎麦が好きになります。以来、人は蕎麦屋巡りを始めるといいます。蕎麦はどうして日本人の心をこうも魅了するのでしょうか。

 今回から2回にわたり特別編として、蕎麦の歴史を紐解きながら、手打ちの物語りなどをしてみましょう。

蕎麦が日の当たる場所に躍り出る

 蕎麦は奈良時代には確実に日本に上陸していたといわれます。

 米が酒を生み、神事に祭られる地位にまでに昇ったのに比べて蕎麦は稗や粟といった雑穀の一種として細々と栽培されてきました。

 米が年貢の対象とされましたが、蕎麦は領主の搾取の対象にならないよう、あまり目立たない場所でこっそりと、例えば裏山などや野菜の収穫後に隠れるように栽培されていました。

 蕎麦は痩せた土地でも十分に収穫できるという俗説もそんなところから生まれたものです。

茨城・金砂郷の良質な土から生まれる常陸秋蕎麦。煙草畑の後のリンを含む土質がよいとされています。近年は蕎麦屋の亭主たちが減反後の畑を借りて毎年蕎麦を栽培しています。写真は流山「すず季」の亭主が耕した旧金砂郷村の蕎麦畑。

 蕎麦のルイ・ヴィトン(連載・流山「すず季」)と称される“金砂郷”の地で生まれる品種(※1)をみても、現在では土壌の質が大変重要視されています。

 蕎麦が「切りそば」として脚光を浴びてくるのは、江戸も中期ころで、爆発的に流行したのは江戸時代も後期でした。

 蕎麦が江戸庶民から迎えられた一番大きな要因は、上方の饂飩に代表される食文化への対抗でした。

 上方を諧謔するように生み出した、江戸の「粋」の文化がそこに色濃く現れてきます。 

手挽き石臼で丹念に挽いた粉を水で溶かし、鍋で強火でこね回します。一瞬の力技でもちもちの蕎麦がきに仕上げます。綺麗な木の葉模様の老舗蕎麦がきは、大井「布恒更科」の作。

 蕎麦は切りそば以前は蕎麦粉をこねて作る「蕎麦がき」として食され、米の補完的な存在でした。

 江戸初期に「切りそば」は寺の懐石料理の中に登場してきたとの事例を散見することができます。

 江戸の古い書物「寺方蕎麦・慶長13年(1608)」では寺院の茶席で饗応されたとあります。

 当時、「切りそば」は技術的に難しく、寺院の料理上手の住職や典座(料理方)の手にかからないと、よい蕎麦にはならなかったのでしょう。